第一次世界大戦で負けたドイツが復活できたワケ その1

1924年8月に勃発した第一次世界大戦は、4年後の1918年11月の休戦協定成立により終息した。
敗者となったドイツは、アメリカが主導で作った講和条約、ヴェルサイユ条約に調印する。
この講話条約によって、ドイツは戦争を引き起こした主犯格と見なされ「戦争の単独責任」を問われ、賠償金・軍備制限・領土の割譲など、国家の存続すら危ぶまれるほど過酷な要求を突きつけられた。
賠償金
総額1320億金マルク。現在の価値に換算すると、40兆~80兆に相当する。(換算の仕方によって諸説あり)
軍備制限
二度と侵略行為ができないように中小国並みに制限された。陸軍兵力は開戦前の88万人(総動員後は450万人)から10万人に制限。海軍も1万5千人に。
軍の根幹を成す将校の人数は4千人のみとされ、ナポレオンを破った、プロイセン陸軍の伝統を受け継ぐ参謀本部と陸軍大学校などの基幹組織も廃止を強要される。
兵器
次の戦争で決定的な役割を担うと考えられていた、戦車と航空機の研究・開発および生産に厳密な制限を課され、戦車や装甲車に類似する車両を他国から輸入することすら許されなかった。
1920年、国家として存続することすら危ぶまれる厳しい制限を課せられたドイツが1940年、ヨーロッパへ侵攻を開始し、フランスを30日で降伏させる快進撃を起こせたのは一体なぜなのか。
ドイツ復活の秘密とは。
まずはドイツ国内の対応からみていこう。
ドイツ復活を目指したゼークト大将は、廃止された参謀本部のかわりに軍務局を設立。
育成が困難な人的資源をいかに残すかが大きな課題だった。
その作戦として行ったのが、将校などの優秀なスタッフを外務省・運輸省・内務省などの国の機関で働かせる。そうことで再度軍備を行うときに、人を即座に軍隊へ転換できる体制を整えた。
戦うための兵器はどうしたか。戦勝国の強力な監視下にあったドイツ国内では、航空機・戦車などの開発研究はできない状態。そこでとった方法として、第一次世界大戦で戦勝国となっているかつての敵国、ソ連と秘密協定を結ぶことであった。
続く

スポンサーリンク
広告
広告

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする