第三者へ 「◯◯先生が」と言う時と、「◯◯さんが」という時の意識の差について

第三者へ◯◯先生と◯◯さんの意識の違い
先生ご本人に向けて「◯◯先生」と呼ぶことに抵抗はないが、第三者と話してる時に「◯◯先生がこう言ってた」と、先生とつけることに僕は抵抗がある。
第三者に対しては先生ではなく、「◯◯さんがこう言ってた」の方が断然話しやすい。
この違いが、どういう意識から来るのかを考えてみる。
まず、◯◯先生と、第三者に言う時の心境を考えてみる。
「◯◯先生がこう言ってたよ」
これは、◯◯先生がこう言っていたと相手に断る事で、自分の意見ではなく、先生が言ってたことをそのまま相手に伝えています、という意識がある。
自分の意見は何一つ挟まない上、先生の意見の正誤も自分では判断出来ないが、◯◯先生の意見を、清濁併せ持ったそのままの状態で、渡しますということだ。
自分というものは、全くそこに介在していない。
先生のボールをそのままパスしただけの状態。
では逆に、「◯◯さんはこう言っていたよ」
ではどういう意識なのか。
◯◯さんと呼ぶことで、自分とある程度対等な方の意見を伝えるという意識がある。
また、自分という存在の中をその意見が通り抜け、自分の存在も重なった上での意見であり、自分の意思も含まれている。 という意識があるのではないだろうか。
◯◯さんと呼ぶことで、自分もそのレベルにまで瞬間的に登っていき(もしくはいきたい)、出来る限り対等に立った状態へ自分を持っていきたい、ということだ。
自分も一緒に成長したいという意思が前面に出ていて、あわよくば◯◯さんの意見を飲み込んで新たに自分の考えを作り上げたい、という◯◯さんを越えることろを眼座す気概も含まれている。
◯◯先生と呼ぶ時は、先生を自分より絶対的に上の存在としてあげてしまい、全服順を持って先生の域に近づきたいという意識がある。
自分が先生を越えるつもりは毛頭ないが、全服順を通して少しでも早くその境地にまで到達したいという意識があると思う。
結論として。
文章を書いていて思ったのが、どちらが良いかは人それぞれで、自分に合わせた意識の持ち方を考えて使い分ければ良いということであるんだなというこどわかった。
第三者への使い分けとして
◯◯先生と呼び、全服順をもって先生に近づきたいという意思を相手と自分に示すか
◯◯さんと呼び、その方をも越えるかもしくは違う意見を作り上げたいという意思を示すのか。
自分への意識の宣言でもあるので、振る舞いとして大事なことかもしれない。
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