運を科学する

運を科学する。
何かの行動と結果を論理的に突き詰めていくと、いつもぶつかってくる要素として「運」というのがある。
論理的にがっしり説明がつくような事象であっても、そこに至るには、「運」や「偶然」といった浮遊的要素に満たされている。
それはまるで、四角い形をした堅い鉄のような論理が、運というなにやら怪しげで煌びやかな水に周囲をすっぽり満たされている感じだ。
堅い鉄の塊が、海の中の浅いところでもなく、深いところでもないふわふわした海の真ん中を漂っているかんじだ。

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そのような不安定で掴みどころのない「運」というものを、科学してみたくなった。
科学して、少しでも予想できる理論的な大きさを増やしたい。
科学して、わからないことだらけの「運」というものを、少しでもわかる範囲を広げていきたい。
運を運という漠としたものではなく、もっと掴みどころのある「何か」にしたい。
そんな事を夢想した。
というわけで、運を科学して少しでもその「運」とやらを理論的に自分の周囲へと招き寄せてきたい。
と思った。
でも、「運」をそのように自分の思い通りにしようと強制すると、たぶん「運」は逃げていくような気がする。
運はそのように、理論的に得ようとして得れるものではない。
運をこちらに招き寄せようと鼻息荒くすることは、アイドルオタクに普通の女の子が寄り付かないのと同じで、かえって欲するものから遠ざかっていくことだろう。
じゃあ、どうすればいいのか。
このまま指を加えて「運」とやらがやってくるのを待っておけばいいのか。
そういえば、「幸運の女神は前髪しかない」とかいう御託を聞いたことがある。
だけど、前髪しかないなんて、女神でもなんでもない。
ただのおばけだ。
百歩譲って女神だとしても、女神の前髪を掴むなんて、大変失礼なことではないか。
あとなんか運にまつわる慣用句的な言葉はあるだろうか。
今なら全ての御託を否定することができる気がする。
そんなことをしても、全く意味がなく、誰も幸せにならないのに。
運についてここまで考えてみて、一つわかったことがある。
運は直接的に得ようと思って得れるものでもない。
運は科学できない。
運を得ようと考えれば考えるほどに、そこから遠ざかって行く。
まるでオタクがアイドルを(以下略)
世の中には、得ようと考えれば考えるほどに、遠ざかって行くものがあるということは、わかった。
念ずる程に遠ざかって行くものと、近づいてくるもの。
この違いはなんであるのか。
また、気が向けば考えることにしよう。

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