山が信仰されるようになったワケを考えてみた

山が信仰されるようになったワケを考えてみた
鳥取  大山
たけっし~が書いたこと
山岳信仰が生まれたのはなぜか
「何故、山岳信仰というものが生まれたのだろうか?」
こういう疑問が、いつか浮かんだ。
山、という、今歩いている大地からの延長線上に隆起しているただの地形に過ぎない自然物を、人間が信仰の対象に祭り上げた理由は何なのか?
ただ大きいからか?
だとしたら、「大きい」と「小さい」の分かれ道はどこなのか?
ミクロの世界での電子のふるまいはサイコロで決まる(確率)という量子論の、ミクロとマクロの境目(神はどこまでサイコロをふるのか)がわかっていないのと同じぐらい
わからない。
だから、山がただ大きいものだから山岳信仰というのが生まれた、というのはなんとなく説得力がないと思う。
そんなに人間は単純ではないはずだ。
そんな単純な理由で、人はお寺を建てて、修業して、理屈をこねたて、プゲラッチョウに説教したり、しないと思う。
山を信仰するというのには、何だか神秘的な、その何かがあるはずだ!
とりあえず、
大山の山岳信仰について調べてみた。
大山のふもとにあるのは「大山寺」というお寺。
~以下コピペ~
平安時代以降、山岳信仰の仏教化が進むにつれて寺院が増え、最盛期には100を超える寺院と3000人以上の僧兵をかかえるほど。一大勢力として、比叡山、吉野山、高野山に劣らないほどの隆盛を極めていました。
~コピペ終わり~
すごいね~。
しかしその地に行くと、信仰しようと思ったのも頷ける。
大山のふもとにある大山寺に立つと、
大山の山頂が綺麗に見え、雲を取り巻きながら山頂を構成する大山頂の山並みの神秘的さに、僕はみとれてしまった。
かつての僧兵たちが、
「この山に守られるように修業がしたい」
と思ったのもわかる気がした。
それぐらい、大山のふもとに居ると、大きなものに包まれているような安心できる感覚と、ずっと眺めていたくなるような美しい山並みに心が洗われる。
大山 山頂を眺む
たけっし~が書いたこと
しかし。
まだそれだけでは、世界の山々で山岳信仰が生まれている理由の説明にはなっていない気がする。
ここからは、登らないとわからない。
いざ、大山の山頂を目指す。
大山の八号目ぐらいにくると、背の高い木も少なくなり、視界が開けてくる。
おうおう。
すごい景色だ。
今は通れない縦走路
たけっし~が書いたこと
山肌がすごい。
山肌のざらつき感、とげとげ感、生き物を寄せ付けない感。。
滑り落ちたら即死。
死をありありとイメージしてしまう、そんな光景が広がっていた。
普段意識することの難しい、死。
この死というものを、高い山では目でみることができるではないか。
たけっし~が書いたこと
これだ。
急峻な山肌を間近に目にすることで、死を想える。
こういう、おそらく平地にいては感じることの難しい感覚を体感できる、山。
なおかつ、ある程度以上の高い山でないと、これは体感できない。
まさしく、メメントモリ「死を想え」ということを自動的に要請される、高い山の頂きという場所が、その山岳信仰へと結びついたのではないのか。
信仰と深い関わりのある死。
その死を想える場所
その場所が、高い山の頂きであるんだろうと思う。
たけっし~が書いたこと
多くの僧兵たちは、修業の過程で死を間近に感じながら(仲間が亡くなりながらも)、僧侶(破戒坊主)として成長していったに違いない。
自分の死が目で見ることができる場所として、信仰の対象となったであろう、山。
高い山に登る人は、おそらく自分の死を擬似体験したいのではないだろうか・・・
疑問は尽きない!
たけっし~が書いたこと

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