集団的自衛権という言葉の意味を履き違えていました。

僕は集団的自衛権の意味を履き違えていました。

内田樹さんのブログを読むまでは、集団的自衛権の意味を履き違えていました。

集団的自衛権と忠義なわんちゃんの下心について (内田樹の研究室)

でもまてよ、実は結構間違った認識をしている人がおおいんじゃないか?と思ったので、書くことにします。

僕はいまのいままで集団的自衛権のことを、こう認識していました。

「わが日本国が自主的に自衛権を発動させるためのもの」

現時点で日本は、

北朝鮮がミサイルを撃ってきても、その基地を攻撃して破壊することはできない。

直接侵略されたときに(アメリカの許可を得て)反撃することができる。

という状態です。

しかし集団的自衛権とやらを手に入れると、北朝鮮がミサイルを発射してきたら、その基地へ先制パンチを繰り出して(できるかどうかはともかく)日本国だけの意志で自衛隊を動かすことができるようになる、と思っていました。

しかし集団的自衛権という言葉の意味は、どうやらそういうことではないようです。

(もちろん上記のことは含まれてるとは思うけど)

「集団的自衛権の行使とは、日本が外国から侵略や攻撃を受けたときの「自衛」の話ではなく、軍事同盟を結んでいる相手の国が戦争をする時に共同で戦争行為に参加することです。」

要するに、アメリカと一緒にどこかの戦争へご一緒するための言葉だということです。

これは百害あって一利なしですね。

今の時代戦争をしても、お金は儲からないし、名誉も手に入らないし、兵士の命は高いわで、まったくいいことがありません。

こんな時代に、わざわざそんな危険なところへ飛び込まなくてはならない言葉を行使できるようにする必要はないでしょう。

橋下さんが日本の集団的自衛権について

「基本的に行使を認めるべきだ。権利があれば行使できるのは当たり前だ」

と述べました。

もちろん橋下さんは、アメリカと一緒に世界のテロ戦争へ参戦するつもりで言ったわけではないと思います。

単純に、「自国の軍隊を自由に使えないなんていう国は独立国ではない!」という、現代になっては自己満足でしかないようなつまらない権利を主張するために、言っていることだと思います。

僕は、

「自国が純然たる独立国である」

ということを確認することはあまり意味のないことだと思います。

煮ても焼いても食えないような国家の威信とやらのために、わざわざ地雷を踏みにいかなくてもいいです。

そんなものよりも、自分という生き物のプレゼンスを上げることに尽力したほうがいいでしょう。

たぶんこれからは、国家の威信をバックに仕事をしたりすることは、少なくなっていくと思います。

国家の威信を高めることに鼻息荒くがんばるよりも、自分というものへの注力をもって結果的に

「祖国を日本とする人は優れている」

といわれるほうが、はるかに国家の威信とやらへも貢献ができます。

というわけで、日本国は独立国だ!ということを確認するために、つまらない地雷を踏みに行くのはやめましょう。

世界は日本がかつてアジア人として白人をはじめて倒したことをまだ覚えています。

「眠れる獅子が目覚めそうだから先制パンチを繰り出すか・・・」

やっぱり今までとおりおとなしくしておくのが正解だと思います。

日本はそんなことで争うよりも、日本文化という世界で一番細やかで雅なものを残していくことのほうが、世界一に慣れると思います。

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