体罰が許されるところ

体罰が許されるところ
高校教師の体罰による生徒の自殺で、体罰問題についての論争が激しくなっている。
社会的な趨勢としては、体罰はキッパリ否、という論調へとなっていくんじゃないだろうか。
僕の意見は、学校教育では体罰は否!というのに同意だが、教育内容によっては体罰が許されるところ、必要とされるところもあるという考えだ。

その場所とは「命のやりとりをしているところ」である。
小さなミスが、大きな怪我や命を失うことに繋がるような仕事の場合は、体罰を行うことは必要であるし、許されることだと思う。
これに一番当てはまるのは、自衛隊や消防警察海保だろう。

僕は自衛隊に入隊して五年間訓練に明け暮れてきたが、教育は常に殴られたり蹴られたりすることとの隣り合わせだった。
現実的にそういうことをされた事は少なかったが、いつでも下手こいたらしばかれるという意識があった。この恐怖感といってもいい空気は、ある程度必要なものだと思う。
もちろんそれは、銃の扱いや大きな兵器の操作方法等、失敗が即命を失うことになりかねない物を扱っていたからだ。
だから、危ないものを扱っているときに口だけで
「そうすると危ないからこうしなさい」
とか
「そのボタンはおしちゃだめ」
とか悠長に指導していたら身体ががいくつあっても足りない。
下手こいたらしばかれるかもしれないという厳正な空気の中、決められた動作以外をすればすぐに蹴りが飛んでくるような張り詰めた状況に置かれていることで、危険と隣り合わせのことを学ばせることが出来るのだ。

こういったことは、自衛隊だけに当てはまる特殊な状況ではない。
大きな機械を扱ったりする工場や漁師、林業とかもそうだろう。
他にも仕事上で危険なことが起こりうる仕事はたくさんあると思う。
体罰によって身体に覚えこませることは場合によっては必要じゃないだろうか。そうすることが、その人の身体や命を守ることにもつながる。
もちろん体罰はなんでもかんでもやって良いということはない。
体罰を苦にして自殺してしまうなんてことはあってはならないし、体罰をする立場の人間は、その人の心身の限界を見極める力が必要になってくる。

これはかなり難しいことかもしれない。

体罰の定義によるが、正座を無理やりさせることが体罰になるのだとしたら、僕も自衛隊時代に体罰のようなことはよくやってきたと思う。
というかそういうことをやって、精神的に追い込まれる状況を故意に作り出すことで、いざ戦争となった時に耐えれる人間を作り出すのが、自衛隊の仕事であるからだ。
何か失敗があったら「その場に腕立て伏せの姿勢をとれ」と言って、腕立て伏せを延々とさせたこともたくさんある。
他にもここに書けないようなことは、それこそ山ほどある・・・
なかなか見極めが難しいところではあるが、僕は相手の心身の限界を誤らないようにしていた。
その人はどこまで耐えれる力があるのか、今この状態でこのような体罰をやっても耐えれるか等々、僕はよく考えていた。
体罰を受ける側が納得できる状況なのか、その事によって心身の損壊が発生しないか等をよく考えて行う必要がある。
僕の自衛隊同期には、自殺したり頭がおかしくなったり急に逃げたりした人はたくさんいるが、どれも皆周囲の人間の配慮が足りなかったからじゃないだろうか。
尊い同期がいなくなってしまったことはとっても悲しい。。

しかし、学校教育で体罰は必要ない。
特殊な学校を除いて、そく命の危機に直面するような事を教育としてはやらないだろう。
だから、先生が教育のために体罰をするのは、自分の教育力の低さを体罰という恐怖によって補うためのものでしかない。
でも正直、いままで体罰の力を頼って教育をしてきた先生方に、体罰に頼らない教育法への転換を期待することは酷だと思う。
僕の中学高校時代には、体罰の塊のような怖い先生がたくさんいたけど、その先生達が体罰をやらなくやったら存在価値がなくなりかねない人が何人も思い浮かぶ・・・
だから現時点では、表面的に体罰はしてませんと言っておいて体罰があったとしても知らぬ存ぜぬで通し、いざ教育現場では体罰黙認であり体罰も仕方ないよね、が当たり前の状態になっているのだろう。
だが、体罰を暗黙の了解にしていたから、体罰による自殺者がでる結果になった。
でも体罰はダメ!ってまた改めて指示しても、たぶん何も変わらないと思う。
じゃあ、どうすればいいのだろうか。

僕にはこの問題を根本的に解決する方法は思い浮かばない。

一つあるとすれば、「体罰を容認してる先生は指導力がないだけ」ということを一般常識化していき、先生自身が体罰を行うことを恥ずかしいことなんだという認識を持持ってもらうといったことも、ありかもしれない。

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