浮浪者と民間人のあいだ

浮浪者と民間人のあいだがなくなりつつあることについて

いつもの淀川河川敷を走るコースに浮浪者たちの住まいがたくさん建っている。
そのエリアの雰囲気が変わったことに昨日気づいた。

僕の浮浪者との歴史は深く、幼稚園から小学二年生ぐらいまでは大きな友達として接し、小学三年生から中学を卒業するぐらいまでは遊び場を奪い合う敵として認識していた。
(経緯は浮浪者大戦、 雪辱!第二次浮浪者大戦 を参照)

だから僕は一般人が抱いていそうな浮浪者への「かわいそう」といったような感情は皆無だ。

むかし、北海道から来た高校生の貧困問題の社会見学に同行するという形で西成区に行ったことがある。

その時浮浪者から「なにしにきとんじゃ!」と言われながら、高校生と一緒に蹴られたこともある。
不倶戴天の敵でもあるのだ。
とりあえずそんな感じなので、「浮浪者は可哀想な人」という民間人が持つ一般的なイメージはなく、自分と同じ目線に存在する生きる上でのライバル、といった感情もある。
だからこそ、淀川を走る時、浮浪者の趣向をこらした建物や、魚釣りや日向ぼっこをしている浮浪者達に対してある種の親しみを感じることもあった。
しかしそれでも自分から浮浪者に対して接点を持つことは避けていた。

だが最近、浮浪者による浮浪者のためだけの居場所になっている淀川河川敷に、ある変化が訪れていることに気づいた。

今までは、河川敷の浮浪者が陣取るエリアに浮浪者以外の姿はなかった。

みんなそのエリアを避けるように散歩したりしていた。
誰が決めたわけでもなく、浮浪者エリアと、民間人の遊ぶエリアが明確に別れている。
その浮浪者エリアに行くと、野犬が放し飼いにされていたり、中国の胡同のような匂いがしたりと、

そこの空気感そのものが北斗の拳の世界のような別世界だった。

しかし昨日は今までと明らかに雰囲気が違っていた。

浮浪者エリアの一角にある、浮浪者達の集会場のような掘っ建て小屋があるところに、

民間人がいた。
バーベキューコンロでも借りているのだろうか。

とても自然な姿で浮浪者エリアにたむろっていた。

もしかしたら綺麗な服を着ているだけの浮浪者かもしれないと思い注意深く見て見たが、やはりどう見ても民間人だ。毎日浮浪者とすれ違いながら生活している僕の目に間違いはない。

また周囲をよく見てみると、

浮浪者が日向ぼっこをしているすぐ近くで子供連れのお母さん達が川で遊んでいるし、
浮浪者とアヒルが原っぱでラジオを聞いているすぐ横で、花をつんでいる民間人がいる。

全く恐れる気配もない。

これはどういうことなのか。

かつて浮浪者は、河川敷で遊ぶ民間人の不安要素として存在していた。
しかし昨日の光景は、浮浪者を不安要素としているどころか、逆にその地域の安全と均衡を保つ良いおじさんのような存在になっているではないか。

民間人の浮浪者に対する警戒度が下がっている理由は何か。

確かに最近、淀川河川敷に住んでいる浮浪者からは、かつてのような危険な匂いは感じてこない。
僕が中学生の時なんかは、浮浪者も自分の身を守るためにドーベルマンを飼っていたりしていた。
中学生の僕には、打ち上げ花火と電動ガンで武装していないと淀川河川敷で安心して遊ぶこともできない危険に満ちた世界だった。
そしてドーベルマンで威嚇してくる偉そうな浮浪者に対して、憎しみを抱いてもいた。

しかし今の淀川河川敷の浮浪者に、そんな雰囲気は全くない。

自然の中に暮らし自然で生きる人の良さそうなおじさんでしかない。
アヒルと一緒に原っぱに座ってラジオを聞いている浮浪者の姿は人生を謳歌している気配がまんまんである。
だから昔の淀川を知らない都市に住む民間人は、余計な警戒心を抱くこともなくなっているんだと思う。
もしかしたら今後はもっと浮浪者と民間人の境目が曖昧になっていくのかもしれない。

河川敷に建てられた、浮浪者が綺麗なガラクタを集めて作られた家の前に子供が集っていたりする。
浮浪者が飼っている野犬も、優しい目をして子供を眺めている。

もう少ししたら、浮浪者と民間人との間でもっと交流が発生していくのではないか。
これはとてもいい事だと僕は思う。

僕が小学生の時は十三公園で浮浪者とよく遊んでいた。
セミや鳩の捕り方とかを教えてくれたり実際に捕まえてくれたり、

自然のことをなんでも知ってる浮浪者は

自然の先生であったし大人なのに遊んでくれる大きな友達でもあった。

しかしそれから浮浪者が増えて治安が悪化、民間人と浮浪者との間に冷戦のような状態になってから、僕と浮浪者との間は引き裂かれたままだった。

この冷戦がやっと終結しようとしているのかもしれない。

自然のことを誰よりも知っている浮浪者と仲良く遊ぶことは、都市に住む子供たちにとってかけがえのない経験になるはずだ。
まずは淀川河川敷がその先駆けとなって、民間人と浮浪者の交流という越えられなかった壁を打ち砕く契機になってほしいと願う。

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