モンゴル国立大学の試験でみんなカンニングしまくるのを見て感じたその効用

驚いた。
モンゴル語学科の期末試験でみんなカンニングしまくりなことに、驚いた。
横の席はおろか、後ろの席やさらには自らの席を立ち別の席へ移ってまでカンニングをしにいくツワモノもいる有様であり、カンニングすることが当たり前であるかのようにみんな振舞っていることには一番、驚いた。

もちろん監視する先生はいるが、二つの部屋を一人で見たり、しまいには先生がいなくなりみんな話しながら授業中よりにぎやかにテストをしたりする始末だった。

僕はカンニングはよくない行為だと思っている。
試験でカンニングすると自分が学んできた成果の実数がわからなくなるのではないか。

そして語学学習のために来ているのに、カンニングしてまで良い点数を取ることに一体何の意味があるというのだろうとも思う。

でも僕もみんなと同じようにカンニングしてみて思ったのだけど(?)、カンニングするという行為から生まれた結果をも成績に反映してもかまわないのではないかと・・・

試験場でカンニングするためには色々な能力が必要である。
偶然隣の席になった人との仲が良いか少なくとも知り合いでなければスムーズなカンニングは難しい。これは人脈の多寡に関わってくる。
また周囲に秀才がいる良い席を獲得するためには運が必要であるし、そして先生の目を盗んでカンニング行為をするためには勇気と周囲の状況を見極める洞察力が必要である。
また万が一先生にカンニングがばれてしまった時にはすかさず満面の笑みを浮かべて全力の愛嬌でごまかすことが出来るかどうかが生死を分かつことになるだろう。

人脈  勇気 洞察力 そして愛嬌

これらは全て、大学での学業が終わって仕事をする上で重要なスキルになってくる。またこれらはどれも数値上の成績に現れる事は無い。

ならばこうも考えられる。
(大学が仕事のできる人間を作る場所である場合)カンニングをも含めた試験結果を元にして成績を出したとしても何ら問題はないのではないか。
むしろ現実の仕事ではパクリをしようが何をしようが最終的に法的な問題さえ回避しておけば、最終的に顧客に満足してもらってお金をもらえれば何も問題はないのだから、逆にカンニングしてまで良い結果を求める姿勢は良い仕事をする上で必要な態度であるのではないかと。

このことは僕の試験に対するイメージを逆転してしまった。
僕は今まで、試験というのは直前まで足掻きにあがいて努力を尽くしつつも、いざ試験になったら自分の力を出し尽くす以外に余計なことは考えず、まるで仙人のように周囲の雑音やカンニングの誘惑を断ち切って、自分の持つ力をそのまま答案用紙に写しこむことこそが正義であり正しい道であると思っていた。

でも試験会場で、この考え方を採用しているのは日本人だけだったのではないか。

他の外国人はカンニングすることに全く悪びれる様子もなかった。むしろ試験中に先生がいなくなったクラスでワイワイガヤガヤ答えをみんなで考えている様はまるで、毎日一緒に勉強してきたことのチームワークによって生み出された造形物のようであり、ある種の羨望を抱かずにはおれなかった。

語学学習の目的は、コミュニケーションをとることにあるので、カンニングできるぐらいの積極性が合った方がいいのだと思う。

だから試験をちゃんと監視しないのはこういう理由があったのかなと合点し、終わりたい。

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