苦難に満ちたモンゴル独立への道

IMGP3768

モンゴルというと、チンギスハーンを始祖とするモンゴル帝国が世界一の帝国を築いたことが有名ですが、近代になってのモンゴルの歴史は僕自身ほとんど知りませんでした。

また、モンゴルは中国人をすごく嫌っていますが、なぜそこまで嫌うんだろうということも疑問に思っていました。そしてモンゴル人と内モンゴル人でさえも関係が良好とは言えません。内モンゴル人がモンゴル人の悪口を言っているのを何回か聞いたことがあって、これにもびっくりしました。

今回はwikiを引用しながら近代モンゴルの成立を出来るだけ簡潔に解説することで、モンゴル人の心の内に迫ってみようと思います。

IMGP3765

清朝統治時代

1693年、清の第4代皇帝の康熙帝はモンゴルのハルハ諸侯から助けを求めらるという大義名分を得て、モンゴル高原を支配していたジュンガル軍を殲滅、モンゴルは清に組み込まれる事となりました。

清朝はモンゴルと同じ遊牧民族なのもあり、モンゴル人にとっても清朝の支配下に入ることに不満は少なかったと思います。その証拠に康熙帝は毎年夏になるとモンゴルの王侯と一緒に狩りをしたり、モンゴルのゲルでの生活をしています。一説には紫禁城の中に草原を作って遊牧式の生活をしていたとも・・・

この時点ではモンゴルとの親和性は高かったと言えましょう。

清朝第4代皇帝康熙帝

清朝からの独立

1911年 – 1924年のモンゴル国旗
125px-Flag_of_Mongolia_(1911-1921).svg

清朝も当初は善政でしたが、月日がたつにつれて官僚機構が腐敗するのは中国ではどの王朝もたどってきた道でした。清朝も例外ではありません。欧米列強の帝国主義の餌食になりつつある清朝に見切りを付けて、モンゴルのボグド・ハーン政権はロシア帝国の支援を受けて1911年10月の辛亥革命を期に同年12月、清朝からの独立を宣言しました。

また、モンゴル統一のために内モンゴルに軍を派遣し、内モンゴルの大半を手中におさめて全土の統一間近になったその時!!

ロシア帝国が清朝との関係悪化を懸念して(本音はモンゴルが大きくなりすぎるのを警戒したのではないでしょうか)内モンゴルからの撤退を要求し、モンゴル軍は統一を目前に撤退を余儀なくされました。

中華民国宗主権下

中華民国北洋政府
125px-Flag_of_the_Republic_of_China_1912-1928.svg

その後1915年、キャフタ協定で清朝の後継国家である中華民国宗主権下でのモンゴルは自治を認められました。内モンゴルも独立を目指しましたが、居住民の大部分が漢民族になってしまっていたということもあり、内モンゴルをモンゴルに加えると人口で上回る漢民族がモンゴルを支配しかねないという懸念も重なって内外モンゴルの合併は実現しませんでした。(このあたりから内モンゴル人とモンゴル人との間に壁が出来始めた気がします。内モンゴル人にしたらモンゴル人から見捨てられたように感じてしまったこともあったかもしれません。)

モンゴル人国家の崩壊

1917年、ロシア革命が勃発してロシア帝国は崩壊し、中国は後ろ盾を失った外モンゴルに対する勢力回復に乗り出し、1919年にはモンゴルの自治権を撤廃し、モンゴル人国家は崩壊しました。

いやまったくひどい話です。1915年に自治を認めておきながらその4年後の1919年に自治を撤廃するなんて・・・

白軍による中国軍の駆逐

でもその一年後に、ロシアの白軍(ロシア帝国派)がモンゴルの中国軍を駆逐し(!)、ボグド・ハーン政権を復活させました。

中国を駆逐してくれて万々歳!だったのですが、なんとその白軍も暴政を敷くではありませんか(!!)

ソビエトによる独立

白軍と赤軍モンゴル連合軍との戦いの図(奥側がソビエト、手前が白軍です。スフバートルの革命博物館にあった絵です)
IMGP3767

その白軍の暴政に嫌気がさしたモンゴル人は民族の完全な独立を求めます。
1919年から独立運動に参加していたスフバートルは、ソビエト連邦の赤軍(革命派)とともに白軍を一掃、人民政府樹立後は全軍司令官としてモンゴルの英雄になりました。

社会主義国へ

1924年にモンゴル人民政府は君主制を廃止し、政治体制を人民共和国へと変更してモンゴル人民共和国が成立。ソビエト連邦に次ぐ世界で2番目の社会主義国となったモンゴルは、その後ソビエト連邦と歩調を合わせ、その衛星国となっったのであります。

スフバートル
IMGP3764

スフバートル(左)とレーニン(右)
IMGP3773

スフバートル広場(昨年7月にチンギスハン広場へ改名されました)
IMG_0777

スフバートルは共産主義者というよりは民族主義者だったようです。そのため現代のモンゴルでも英雄として祀られ続けているのかもしれません。

終わりに

ほとんどがwikiの引用になってしまいました・・・

でもこうして歴史を見てみると近代のモンゴルは、大国すぎる大国に挟まれたが故に、大国に振り回されながらやっと生き延びてきた国だということです。

アメリカに敗北するまで独立を保ち続けてきた日本人にはわからない苦難がたくさんあったに違いありません。

でももしかしたら大国の庇護の元の自治の方が生きやすいという面もあるのかもしれません。

モンゴルにとってのロシアが、今の日本にとってのアメリカであり、日本にすればアメリカの言う事さえ聞いていれば後は勝手にやっていけるというのは案外楽な生き方だという面もあるのかもしれません・・・

少し話がずれてしまいました。

モンゴル人と内モンゴル人についてはまた別の機会に考えてみたいと思います。

スポンサーリンク
広告
広告

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント