貧乏を救える男

昨夜夢を見た。

それはカンボジアで観光をしている夢だった。僕は大きくて綺麗なショッピングモールに、ガイドさんといるところから夢は始まり、ホールにある大きな大きなスクリーンには、家族が仲良くおにぎりを作りながら楽しそうに話している一家団欒の風景が流されていた。

 

それを見てガイドさんがポツリとつぶやく。

「生まれてから俺はいつも一人だった。家族のいない俺にはワイワイおにぎりを作るような体験をしたことがない」

 

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僕は車で観光地になっている遺跡に到着していた。

駐車場に車を止めて外に出ると、どこからともなくぼろきれに身を包んだみすぼらしい子供たちがやってきた。

「僕たちはご飯を食べるお金がありません。だからお金を恵んで」

 

僕はお金をあげようとした手を止めて自問した。

 

「なぜお金をあげるのか。お金をあげれば解決するのか。お金を安易に与えてしまうと、この子供達は観光客から恵んでもらうことを生活の糧としてしまわないか。僕の行いは恵んでもらうことだけを覚えて自分で何もできない人間を生み出してしまうだけではないのか」

正反対の自問も浮かんできた。

「もし今お金をあげないと子供達は飢え死にするかもしれない。困窮するあまりに悪事に手を染めてしまうかもしれない。恵まれることが当たり前になる人間にさせることが怖くて、ここで何もしないことが本当に手助けになるのか」

 

ここで僕の思考はストップしてしまった。

ふと頭をよぎったのは、最近読んでいる本の主人公「白張虎ならどうするだろう」

白張虎とは、満州の地で東北王になった張作霖のことだ。僕は浅田次郎の中原の虹という小説がとても好きで何回も読んでいるのだが、その主人公として白張虎 張作霖が登場する。

 

張作霖は小説の中で、馬賊の親玉として周辺の馬賊を配下に組み入れ、清国が乱れた隙をついて満州にて東北国を作りつつあった。

 

裸一貫から立ち上がった張作霖は、東北庶民の支持を強烈に得てのしあがっていく。

張作霖はなぜこれほどまでに好かれるのか。その秘密は張作霖が吐くセリフにある。

「鬼でも仏でもねえ。俺様は、張作霖だ」張作霖

(張作霖という己を隠さず全てを引き受ける態度)

「親を殺された恨みは捨てよ。恨みを捨てられぬ者は親とともに死ね」張作霖

(敵は容赦せず、子供にも生きるか死ぬかの決断を迫る酷薄さ)

「ああ、言わせてもらうさ。明日の命も知れねえ女子供や年寄りをおっぽらかして、世捨て人を気取ってやがるおめえは、腐れ卵のくそったれの、どうしようもねえ豚野郎だぜ」張作霖

(力はあるのに社会を嘆くだけで何もしようとしない君子に対する怒り)

「没法子 没有法子だけはいっちゃならねぇ」張作霖

(没法子という「どうしようもない」という意味の言葉を言ってしまうと本当にそうなってしまう。その言葉をこの世からなくすために俺は存在するのだという覚悟)

これらから見えてくるのは、張作霖という男は周囲に発生する全ての不幸を背負って生き、そして「俺様が貧乏をなんとかしてやるぜ」という使命感、貧乏という宿痾を根絶してやるという正義感の塊のような人間として存在している。

 

この使命感と正義感を宿せる人間の大きさを持った個体こそが「英雄」と呼ばれるのだろうか。

 自分の周囲にいる貧乏人の人生を背負っていくことのできる人間だけが、歴史上に数多いる英雄になっていくのだろう。

 

僕は夢の中のショッピングモールで、ガイドさんに何も言うことができなかった。

夢の中の駐車場でお金をせがむ子供たちに対しても、僕は何ら助けになるような行動を起こせなかった。

 

今の僕は、誰一人助けることができないことを、夢でもってまざまざと思い知らされた。

その場に張作霖がいたならきっとガイドさんも子供たちの助けになることができたに違いない。助けになる言葉をかけてあげたに違いない。

 他人の人生をどれだけ引き受けれるかで、その人間の大きさは決まってくると思う。

僕はまだ自分一人がやっとというところだ。英雄になるつもりはないけど、張作霖達のような歴史上の人物の何分の一ででも引き受けることができる人間になりたい。

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