富士山を世界遺産にする必要はない。

「富士山を世界文化遺産に」というキャッチフレーズへの違和感。

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東京駅に新幹線が着く直前、窓から見えた「富士山を世界文化遺産に」と、美しい富士山をバックに大書された看板が目に留まった。
この時、
「富士山は世界遺産にしないとダメだろうか?」
と思ったことについて、書こうと思う。
そもそも世界遺産という仕組みが生まれたのは
「世界遺産という認定をしないと、その自然・遺跡が失われてしまう」
という必要に迫られて生まれたものだ。
それに付随してきたのが
「観光資源」
としての付加価値だろう。
富士山は日本を象徴する山である。
葛飾北斎が描いた富士山等、芸術作品として描かれた富士山もたくさんある。
世界でも、日本の象徴として富士山を記憶されていることが多いと思う。
富士山はもう立派に日本を代表するものとして存在している。
また日本人のほとんどの人は
「いつか富士山には登りたい」
と思っているはずだ。
富士山から眺めるご来光に至っては、他の山から眺めるご来光よりも、数倍価値あるものとして認識されている。
これもただ単に、富士山が日本一高い山だからという単純な理由だけではないだろう。
日本人の心の中には、強固に確立されている「富士山」というものがある。
この日本を象徴してきた富士山を、今さら世界遺産にする必要があるのだろうか。
ということを考えてみた。
富士山を、世界遺産という既に出来上がっているある一定の価値付をしてしまうことは、逆に富士山自体を貶めることにならないだろうか。
世界遺産というものは確かに素晴らしいものばかりだ。
僕も、世界中の世界遺産を巡ってみたいと思う。
だがしかし。
世界遺産という画一したフラグを貼ってしまうと、今まで日本人が独自に培ってきた「富士山」というものへの想いを「世界遺産」として上塗りしてしまうことにならないだろうか。
世界遺産に認定されることによって、他の世界遺産と同列に並ぶ栄誉に浴する変わりに、日本の富士山としての「大切にしたい何か」が失われてしまうような気がする。
富士山は富士山だ。
「世界遺産 富士山」
となってしまったら、遠くへ行ってしまったような、親友が芸能界で売れまくっているような
一抹の寂しさを感じる。
日本の富士山、だったのが
世界の富士山になってしまう。
単なるわがままだろうか。
だけど
世界遺産にしないと守れない自然なわけでもない。
世界遺産にしないと観光資源になっていないわけでもない。
もはや富士山を世界遺産にする理由は、
「我らが日本の富士山が世界遺産になった!」
という自己満足、自己肯定感が欲しいからじゃないのか。
確かに今の日本には、この類の自信を付けれるイベントが必要かもしれない。
でもやっぱり、そんなもののために、富士山というものを世界遺産というものにしてほしくはない。
富士山を想う全ての先達が生み出してきた富士山というものを、大切にしていく方が、良いのではないか。
だから僕は、富士山を世界遺産にしなくても良いと思う。

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