自然物と人工物の違いはあるのか
人間には誰しも
自然に癒される。
自然が好き。
自然に囲まれて暮らしたい。
という欲求がどこかに存在している。
この自然というものはもちろん、木とか森とか滝とか海とか山とか川とかのそういう
「人間の手が加えられていない物」
のことだ。
対する、自然の反対概念は、「人工」である。
人間が自らの手で作り出したあらゆるものを指して人工物という。
今この文章を見ているそのディスプレイ画面も、このブログを成り立たせている文字情報も、もちろん人工物である。
人工物によって人間は身のまわりの生活を成り立たせている。
しかし、人は人工物の中だけで生活していると息が詰まりそうになる。
どんな無機質な部屋でも、植物を置いたり、太陽の光を招き入れようとする。
多分、人工物だけで占められた空間の中で生きていくことはできないのだろう。
自然がないと生きていけない。
これは間違いないことだ。
しかしこの、自然が無いと生きていけないというところに、大きな違和感を僕は感じた。
この違和感について考えてみる。
人間は自然から生まれた生物だ。
太古の昔、海にいたバクテリアから進化し続けてきたのが人間である。
人間も、地球と同じ「自然」の一部であることは間違いない。
その自然の一部である人間が作ったものも、同じ「自然」ではないのか。
自然から生まれた人間が作ったものだから、それも自然という範疇に入るのではないのか。
こういう違和感が生まれた。
例えば自然の川の流れは、湧き水を出す山や雲からの雨によって生まれている。
そこに山がなければ、雲が発生しなければ川もそこに流れることはなかった。
人間の手で作ったものが「人工物」であるならば、山や雲が作った川というものは、「山物」「雲物」と言っても良いのではないか。
ここでこんな反論を思いついた。
「川は、山や雲が意志をもって作ったものではない。物理法則や自然の仕組み・地球のの循環によってそこに現れたものだ。
対する人工物は人間が意志を持って作ったもの。
この意志が媒介しているかどうかの違いが、人工物と自然物の違いを成り立たせているのである」
なるほど。
確かに。
これは要するに
「意志によって生み出されたものが人工物であり、意志が介在することなく自然の摂理で生まれたものが、自然物である」
ということだ。
(自然の摂理という言葉の定義が曖昧だが、ここで言いたい意味にわりかし近しい言葉だと思うので、自然の摂理ということにしておく)
人間の意志と自然の摂理というものは、違うものなのだろうか。
この問題をさらに要約すると
「人間の意志とは何か」
ということになる。
すごく哲学的な難問にぶち当たってしまった。
とりあえず現時点での結論を先に書くと
「僕は人の意識と自然の摂理は究極のところ同じものだ」
と、僕は考えている。
長くなってきた。
しかも、まだまだこの話は終わらない気がする。
どんどんいろんなところへ深く突っ込んで、ぶつかって、壊されながら、ガシガシ進んで行くような話になりそうだ。
なので、今日はここまでにさせていただく。
次回、続きを考えていきたいと思う。
また見てね。