サムエル・アランダ(スペイン/2011)
イエメンでサレハ大統領に対する抗議デモの間に負傷した親類を抱きかかえる女性
世界報道写真展2012へいくべき三つの理由
1.優れた作品
2.世界の目線
3.報道カメラマンの想い
1、写真が作品になっている
世界報道写真展は、5000人の写真家が応募した作品10万点以上から選ばれた写真が展示され、
世界100の会場で開催される世界最大級の写真展です。
世界の今を撮り続ける報道プロカメラマンたちの写真から選ばれるだけあって、報道という何かを伝える枠には収まらない一種の芸術作品にまで昇華されたと言える写真ばかりになっています。
今回は2011年の写真がテーマ。
2011年は世界中でたくさんの事件・出来事が起こった年です。
ジャスミン革命からの連鎖的に起きた中東での革命・内戦により、
ムバラクやカダフィの失脚へとつながりました。
今現在にいたっても、中東での混乱は収まる気配はありません。
そして東日本大震災。
多くの犠牲者を出し、僕の中ではあらゆる価値観が変転してしまった出来事でした。
ほかにもノルウエー大量殺人事件等等、悲しい出来事が多かった一年だったように思います。
そんな世界を撮り続けた報道カメラマン達の写真がここにはあります。
なんといっても展示写真1枚1枚のその迫力。
たとえば入り口すぐにある写真。
革命前のエジプトで、デモに参加した男性が警察に対して石を投げる瞬間を写したもの。
その男性はスーツを着ていて、これから仕事にいくような格好をしています。
とてもデモ隊に参加するような血気あふれる若者には見えません。
でもその石を投げるその表情は、目は怒りに燃え、口は何かを叫ぼうとしているかのように尖り、石と一緒に今までの憎しみを投げつけるような迫力がありました。
まるで静止画の写真が動き出し、目の前でデモ隊と警察の激しいぶつかり合いが始まりそうな印象でした。
他にも中東のデモや内戦に関する写真はたくさんあります。
どの写真からも、その場で起こっている事の激しさや恐ろしさが伝わってきて、その場に一瞬でも自分がいたような錯覚を受けます。
すごい写真というものは、現場の空気はもとよりその世界までをもひっくるめて写真に収めてしまえるのでしょう。
2、世界目線で世界を見るということ
日本の報道は自由ではない。
とよく言われるようになって久しいです。
世界の報道自由度ランキングも、2011年に11位→22位になってしまいました。
日本の報道はある種の偏見に満ちている、と言っていいでしょう。
でも僕はもちろんこんな事は分かっているつもりでした。
ネットで情報収集もしているし、自分で出来事について考えるようにしているし、自分はある程度客観性を保持できている!と思っていました。
だけど、ここへきて、それが誤りだったことを知りました。
デモの写真や世界の出来事の写真を見て
「あれ、実際はこんなにひどかったの?」
といった衝撃をうけました。
ネットやツイッターでいろいろな人の意見を見て聞いて考えて頭の中に描いていたイメージと
その写真に写っていた情景とはまったくの別物。
日本人が考え、日本人が取捨し、日本語にされるものにはやはり何がしかの「日本的主観」のようなものが混じっているのでしょうか。
展示されている写真から語りかけてくるものは、まったく未知の事ばかりでした。
もちろんそこでも日本語で写真の説明はされているのですが、やっぱりそこにある写真から伝わってくるものは違います。
何が違うのかうまく説明できませんが、一つ印象的なことがありました。
東日本大震災の被災者のおばあさんの顔をアップで撮った写真があったのですが、その人が最初日本人には見えませんでした。
説明書きに、東日本大震災被災者と書かれているので頭ではわかってはいるのですが、なぜか違う人に見えました。
外国の人が外国の人を撮ったような写真にみえました。
確かにその写真を撮ったのは、震災を取材に来ていた外国人です。
被写体は日本人。
しかし被写体も外国人、日本人ではない人に見えました。
何かこう、日本人どうしでは出せないような緊張感のようなものをその写真から感じたからかもしれません。
これが世界の目線ということでしょう。
また、この被災者のおばあさんの写真からは、デモ隊に投石する人々を撮った写真とは対照的な力を感じました。
デモ隊の人々が動的な写真だとすると、被災者のおばあさんは静的です。
その写真から何かが動き出すといったことはなくそこからは、
おばあさんの内なる想いや、その瞬間の時間の流れまでをも封じ込めたものになっているように感じました。
封を開けたら、おばあさんの想いがどわーっと流れてくるような、いっぱいつまった感覚です。
動的な写真とは別の力を感じた作品でした。
3、報道カメラマンの撮影にかける想い
僕は人の写真を撮るのが苦手です。
犬とか猫とかの誰かに飼われている動物を撮るのも苦手です。
道を歩いていて、かわいい犬がいたりしても写真を撮ることはできません。
ただ僕が遠慮しているだけだと思っていましたが、ここへ来てそうではないということに気づきました。
結論から言うと、僕はただ、怒られたらどうしよう、嫌がられたらどうしよう、と臆病になっていて傷つけられることを恐れていただけでした。
東日本大震災での被災者を写した写真に、その写真を撮ったカメラマンの声が掲載されていました。
被災者からすると、「こんな時に何撮ってんだ、人手が必要な時に何カメラを持ってうろついてやがるんだ!」
って思うかもしれません。
直接怒られるかもしれません。
でも僕はこんなときだからこそ、胸をはって写真を撮り続けようと思います」
思い出しながら書いているので少し文章は違いますが、
被災地や危ない現場で写真を撮るという行動には予想以上の心理的重圧がかかっているんだなと思いました。
それでもこうやって「だからこそ俺は写真を撮る」という使命感を持てた人がその場の自然な写真を撮ることができるのかもしれません。
写真を撮るというのは、ものすごい恣意的かつその場にとっては違和感のある行為だと思います。
だからこそそういった申し訳ない気持ちを持ちつつも、その場を写真で記録するという行為にまっすぐ取り組むカメラマンの熱い想いを感じれました。
皆さんも機会があればぜひ見に行ってください。
世界報道写真展2012
現在は京都の立命館大学で開催中です。
京都の立命館大学では10月14日までです。