名画を観ても意味がわからない時の心境

僕は名画を観にいくことがある。
名画に対して、あーだこーだ感想を自分も言ってみたいと思ったから。
でも今まで何回か行ってみて思ったことは、名画を観てもボクの心に残っているものが何ひとつとして無いということに気づいたことだ。
少しは絵についてのうんちくは勉強したつもりだし、小学校の時に描いた絵が金賞になったこともある。
だから「ある程度はわかるんじゃない?」ていう根拠のない自信もあった。
だから人並みに絵を観た後にみんなが述べているような感想を持つことができるに違いない!と思っていた・・・
でも自分の心の中を覗くと、やっぱりなにひとつ残っていない。
絵を観た後の感想のようなものが何も残っていない。
実際に絵を前にしても、それが自分に近づいて来て「なるほど!」ってなるようなことはなく、僕以外の名画を観てうんちくを述べているような人が感じているであろうはずの感覚が、その名画から湧き上がってくるはずの何かがまったく自分に向かってこない。
なぜだろう。
まず理由として思いついたのが、「目から入った情報を言葉に落とし込めていないから、何も感じていないと思っている」のではないかということだ。
ここ一年の間に、小難しい哲学書とか内田樹さんの本を読むことで、なんでもかんでも言葉に落とし込んで
「これはこうでああでこうだからそうなるんだ」
みたいに理屈を積み重ねて面白いところへ到達するという思考回路になっている。
だから、なんでも言葉に言い換えて理解して納得しなければ、自分の中に落とし込めていないと考えているのかもしれない。
この前、
「湖に反射した月の光はなんで自分に向かってくるのだろう?」
ということを周囲に聞いていたら、
「なんでも言葉にしないと済まないのね」
と言われて、はっ!としたことがある。
たぶん、言葉にならないことを非言語でそのまま受け取ることが出来なくなっているんだろう。
曖昧なままで自分の中に置いておくことができなくなっている。
これは健全な形じゃない気がする。
だって、現実世界で言葉で説明できることなんてわずかしかないし、
今、目の前に見える景色を言葉で完全に精密な状態で説明することは不可能だ。
となれば、言葉でなんでも置き換えて捉えてしまう今の状態は、
逆にかなりの情報を欠落させていることを容認してしまっているのかもしれない。
言葉で理解して表現できることに安堵してしまい、その他の言葉にならなかった無数の事象を闇に葬り去っていたという恐るべき欠落に気付いていなかった。
でもそうすると、今こうして文章にして言葉にしていることも、あまり良くないことのような気がしてきた。
でも、そもそも僕がこういうよくわからないことを文章化している理由は、自分の中にあるよくわからないことを文章化することによって、まだ気付いていない心の中に迫り造る、ためだ。
だから文章化を通してでしかできない事だということはわかっているから問題ないはずだ。
問題なのは、文章化することでやはりどこかに居着いて安心しているということなんだろう。
要するに「なんでも言葉にして理解できた!」と安心することだ。
それによってそれ以外の感覚を無下にしてしまうことだ。
たぶんここでの絵をみた僕が持つべき感想として理想の状態は、
「うまく言葉にできないけどなんとなく元気になった。」
とかみたいな、小学校の感想文のようなものでいいのかもしれない。
無理して名画を観た人が自身たっぷりに言っているような感想を持つ必要はないのかもしれない。
あんなのも、適当に言ってるだけかもしれないし。
要するに、どちらかに居着くことなく、ふわふわした状態を受け入れれる勇気。
これが今の僕に必要なんことなんじゃないだろうか。
おしまい。

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コメント

  1. sanuki より:

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    先月おじゃましたものです。
    ぼくも、名画を前に戸惑うことが多いです。ただ、レイバーンというひとの絵を見たときは仰天しました。女の子を描いたものなんですが、ものすごくいきいきしていまして。呼吸しているのでは?と本気で疑いました。あとでしらべてみたんですが、レイバーンはほとんど独学で画家になったそうです。どんな修行を積んだのか、想像もつきません。