縁があるって縁があるの?

縁
「これも何かの縁だから」

っていう言葉をよく聞く。
けれど縁ってなんだろう?っていつも思っていた。

「今目の前にいるあなたは、人類60億分の1の確率で私の前に存在している。これはすごいことだ。だから縁があるのだ」などと言う人がいる。
しかし、この縁というものは、本当にそんなすごいものなんだろうか?

縁というのがあるとすれば、砂利道で隣り合っている石同士にも存在していることになる。
石がそこにあるためには、その位置を固定するための他の石や地面が必要だ。だから石の隣にその石が無ければ自然とまた別の石が隣に来ることになる。結局はどこかで何かの石がその石を支える事になる。
石にとって、自分を支えてくれる石や地面なんていうのはなんでも良いはずである。石にも縁があるということになるのだろうか。

また、例えば職場でも自分の後輩として新人が入ってくるとする。
特殊な仕事でない限り、その新人が普通の人間でさえあればぶっちゃけ誰でもいいはずだ。
新人が入ってくる時に「60億人の中から選びだした!」なんてことはありえない。

学校とかでもそうだ。
同じ教室のメンバーなったことにも、縁があるとかよく言う。
でも同じ教室で勉強する人なんてのも、最低限普通の人間であれば別に誰でもいい。

だから僕は、その誰でもいいはずの人間に対して「これは縁ですよ」と、特別視することの根拠がわからない。
なぜ誰でもなんでもいいはずなのに、そこに縁があるとか言うのだろうかと疑問に思った。

まず、縁について漢字の成り立ちを調べてみよう。

縁という漢字について( 白川静 常用字解)
織物のへり飾りの部分を縁といい、「へりかざり」の意味となる。またすべて「ふち、まわり」の意味に用い、縁故のように、「つながり、ゆかり」の意味に用いる。

「織物のふち」が当初の意味だったようだ。そこから「ふち、まわり」へと意味が深化していったのだろう。もともと縁というのは、物質的なつながりの面で使われる意味だったということだろう。

次に仏教の解釈をみてみる(wiki 因縁)

仏教における因縁の意味。因と縁のこと。因とは、結果を生ぜしめる内的な直接原因のこと。縁とは外から因を助ける間接原因(条件)のこと。一切のものは、因縁によって生滅するとされる。因縁(サンスクリット:hetu-pratyaya)『新・佛教辞典』中村元監修 誠信書房 参照
初期の仏教では因(hetu)も縁(pratyaya)も、ともに原因を意味する言葉であり、後に区分が生じて因を原因、縁を条件、とみなした。

よくわからない。
とりあえず「間接的に主を助けるための条件が縁」ということになるだろうか。
物理的ではない間接的な力が縁ということになる。

こうして比べてみると、現在日本で用いられている「縁」の意味合いは、仏教的な側面が強いように思う。
めぐりめぐってなにかくるみたいな仏教の考え方が、縁という意味合いを持つ事になり、人と人との偶然の出会いをも縁という言葉で付加価値をつけることが正しいとされてきたのだろう。

仏教の側面が強いという事は、英語で「縁」の意味はあるのだろうか?

〈めぐりあわせ〉 (a) chance
〈宿縁〉 fate; 【形式ばった表現】 karma
〈関係〉 (a) relationship; (a) connection;

どれもしっくりこない。
他にも調べてみたらやはり英語で「縁」という意味を正確に伝えることは難しいようだ。
英語で縁という意味合いは無いと言ってもさしつかえなさそうだ。

やはり縁は仏教的な使われ方なのだろう。
宗教的な言葉なのだから「縁」という言葉の意味に根拠がないのは当たり前だ。
仏教を作った人たちが、「縁という意味を持たせる方が良い」と考えたのだろう。
だから縁には根拠もへったくれも何も無いけど、「あなたとは縁がある」って言っといた方が人間関係うまくいくよ
ということなんだろう。
さすが仏教!
おしまい。

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