2016年に開催された第一回チンギスハーン国際映画祭を僕はなんとなしに観に行った。
モンゴルの映画を上映して、モンゴルの演奏がある普通のイベントだと思っていたら、そこではアフリカのダンスや黒人の歌が披露されていた。
なぜ、モンゴルの映画祭でアフリカのダンスや黒人が歌っているのだろうかと、最初は疑問に思ったが、気づいたのである。
これは「新しいモンゴルを表現しようとしているに違いない」と。
現代ではモンゴルというと、モンゴル国と中国の内モンゴル自治区などに生活しているモンゴル人のことを言うが、モンゴル帝国を構成した「モンゴル人」は、現代の一つか二つの民族で構成される「モンゴル人」ではなかった。
「モンゴル」とは、民族を超えた何かであったのである。
このことを言葉にしている本に出会うことができた。
「遊牧民から見た世界史」である。
以下、本書から抜粋。
現在われわれが使っている「民族」「国家」の概念は大変強固で堅牢な語義とイマジネーションをともなっているが、これはフランス革命を機に近代西欧で作られた枠組みであり、ここ200年程のものである。
ソ連崩壊後、東欧の民主化もあって一時は西欧型の世界の枠組みの勝利とも思えたが、ほぼ一斉に各地で「民族自立」「民族浄化」「民族純化」の嵐が激化した。「民族」「国家」「国境」「社会」などの既成概念が全て液状化していくような現実を前にして、近代西欧型の文明パターン、思考パターンは急速に色あせた。
そのようななか「民族」や「国境」といった硬い枠を超えたなにか、人間と地域をつなぎ世界史を成り立たせてせてきたもののありかたを、「遊牧民の生き様」から学べないだろうか。
モンゴル帝国はなぜあれほどに史上最大の版図を持つまでに成長したのか。
熟練した騎乗と弓者の能力を備えた牧民戦士、集団としての展開力に富む騎馬軍団、日頃の遊牧生活から培われた苦しさやひもじさへの耐久力と克己心、そして何よりも強固な氏族単位、部族単位での結束力。ひとつの答えは一般に言われるようにその戦闘力と機動力である。
もう一つの答えをモンゴルということばそのものに求める。モンゴルとは極めて融通性に富んだ集団概念であり、それは版図の拡大につれて膨張した。モンゴルはどんどん仲間を増やし、それを「モンゴル」という名の下に次々編入した。
「敵」(ブルガ)をなるべくつくらず、「仲間」(イル)をたくさん増やしていく。遊牧民から見た世界史 杉山正明
「モンゴル」という独特の集団概念に端を発した拡大運動は、しだいになかば自動装置のようになりゆき、その結果「モンゴル」への所属意識を共通項としてもつ人間の渦が、幾重もの同心円状をなして、ユーラシアサイズでひろがったのである。
そうしてみると、「モンゴルとはなにか」という問いかけは、わたくしたちに、では「人間のかたまりとは一体なにか」と逆に問い直してくるところがある。
ともかく、「民族」をこえたなにかであった。
「民族」を超えた何かをもう一度「モンゴル」という言葉が紡ぎ出すのは無理だと思う。
だけど、「モンゴル」という言葉がかつての世界で使われていた「気分」は、現在にもわずかながら残っているように思う。
世界を一つの何かへと染め上げていったエネルギーの断片でも、「モンゴル」という言葉や考え方から得ることができれば、これからの世界を作っていく一つの助けになると僕は信じている。
そういったかつての「モンゴル」を体現しようとしているのが、チンギスハーン国際映画祭であると思う。第2回チンギスハーン国際映画祭でも、モンゴルはもちろん、オランダやシンガポールの映画も上映予定となっている。
「モンゴル」というものに新しい風を吹かせていこうではないか。