純血モンゴル人という空想

(昨日の続き)
朝になると、酔っぱらいのおじさんと痩せたモンゴル人が楽しそうに談笑していた。

昨夜の喧嘩などどこ吹く風である。モンゴル人は喧嘩をしても、すぐにケロリと水に流すようだ。

逆に「拳で語り合った仲間だ」ということで仲良くなったような感じもある。

でも喧嘩の理由の「俺は綺麗なモンゴル人で、お前は違う」という考え方に、僕は違和感がある。

内モンゴルにいた時、同行のモンゴル人が、内モンゴル人や中国人に対して高圧的に接していることが少しあった。
外国人慣れしている人だから、そういう考えは無いものだと思っていたが、どうやらそんなことはないらしい。

もしかすると、ハルハのモンゴル人は「俺は正統なモンゴル人だ」という区別を好むのかもしれない。

しかしこのような考え方は、およそモンゴルらしくないと思う。

チンギスハンが偉大だったのは、人種や宗教の違いに寛容だったために大きな帝国を築いたところだろう。
YuanEmperorAlbumGenghisPortrait

であるのに今のモンゴル人は、「誰が真のモンゴル人か」という、証明のしようのない事にこだわり過ぎのような気がする。

日本のように島国ではないユーラシア大陸で生きる人々は、この大きな大陸の上で混血が起こることは避けられないはずだ。

だから「綺麗なモンゴル人」=「純血のモンゴル人」という定義は全く空想上のことでしかない。

このような空想を掲げて他者を排除する純血モンゴル思想は、モンゴルという綿々と続く「文化思想」に対する泥塗りでもあるだろう。

僕が単一民族の島国に生きる日本人だから、このような事を思うのかもしれない。モンゴル人からしたら余計なお世話か。

しかし、ハルハ族ではない人々が「純血モンゴル人と呼称する人々」から差別されている事は事実だ。

僕はこんな小さなこだわりを捨てちまって、心意気だけでも過去の大モンゴルとして偉大だった時を見習って欲しいものだと、思う。

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