武王の門 読了 夢は祀るものなり

武王の門よみおわった!

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「懐良」という天皇の子が、九州に日本ではない、新しい国を作ろうとしたお話。
面白かった。
特に序盤の、京から九州に落ちてきて、水軍の力を借りて島津と闘い、その後、菊池武光の支援を得てからは、各地の武士と戦に戦を重ね、九州統一、その後の壮大な夢を目指してひた走る様が大きく、力強かった。
だが、夢に近づくにつれ、かつて描いていた美しい夢と現実が離れていると、懐良は苦悩し始める。
そこに、歴史のつじつまを合わせるように、足利幕府の新探題が現れ、武士の力によって九州の覇権を奪われてしまう・・・
懐良が描いた新しい国とは何だったのか?
それは、戦を無くすことだった。
戦をするために存在する武士を無くして、戦を無くすこと。
そのために武士以外の力を必要とし、そこに水軍や山の民といった、「武士以外の勢力」がその夢に向けて立ち上がる。
だが、やはり戦の中心は武士である。
武士の力を借りて、武士を無くすための戦をするには、やはり無理があった。
最後は足利幕府の新探題 今川了俊に大宰府を奪われ、九州の覇権は足利幕府に帰してしまったが、最後の戦いで征西府軍と菊池軍が、今川了俊に一矢報いたところで物語は終わる。
武士を使って武士を無くそうとすることの無理が、上手く描かれている。
また、北方謙三は、夢を広げるだけ広げていると思う。
だけど、最後は歴史のつじつまを合わせるために、夢がなくなっていく様の描写に少し無理があった。
謙三は、武士が武士を無くそうとすることへの矛盾を突かずに、なんとなく思慮深い今川了俊に懐良が負けていくという感じだった。
もっと、この矛盾を突けばいいのにと思ったが、そうするとその夢を全力で助けた武士の菊池家をどう描けば良いのかということに苦慮したからではないか。
美しいままに滅ぼしたかった。
そんな想いがあったように、思う。
歴史に沿うことは、小説である以上は仕方が無いことであるが、新しい国という、夢の続きを僕は見たかった。
だけど、問題ない。
北方謙三はこのうっぷんを、中国の歴史で晴らしているのだ。
水滸伝からの中国歴史小説では、見事に新しい国が生まれてからなくなっていくまでを描ききっている。
水滸伝で飛躍し
楊令伝で夢を見て
岳飛伝では夢がなくなっていく様を描くことになるだろう。
夢は幻でしかない。
結局はこれが夢の本質だ。
武王の門の中で、菊池武光が印象的な言葉を述べている。
ツイートを転載する。
@takessii: 「かつて夢はもっと美しかった。そう思いました。汚れていく分だけ、夢に近づいたということでもあるのでしょうか」菊池武光
#武王の門
夢に近づいていくほどに、自分の手は汚れていく。
夢が煌びやかであるほどに、既にあるものを否定して壊さなくてはならない。
必ず、夢となる舞台には既に何かが存在しているのだ。
だから、夢というものは、綺麗で美しいものだけではない。
夢を現実にするためには、必ず争いや闘いをくぐり抜けなくてはならない。
その覚悟があるものだけが、夢を語り、仲間を集い、現実にするために走り出して良いのだと思う。
まぁ、夢は夢として棚の上に置いて眺めて祀って手を合わせておくのが、一番賢いってことか。

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