内田樹読書会 「街場の読書論」 開催後まとめ

街場の読書論 開催後まとめ
読書会は四名の参加でした。
だだだーっと、話した内容やらその後に僕が考えて付け足したことやらを書いていきます。
とりあえずこの内田樹読書会では、あまり本に書いてある直接の事について話さない、ということをご理解頂ければと思います。
それではどうぞ。
大学図書館に勤務している司書さんがいらっしゃったので、まずは大学について議論。
大学って何だ?
街場の大学論によれば、大学っていうのは元々、先生という知と一緒に移動する集団、だった。
それが今のような大学の形(決まったハコに集まる)になったのは、いつからなのだろう?
(調べたら、イスラマバード北西のタキシラという寺院にて僧を育てていた。これが大学の始まりらしい)
義務教育との
違い
高校生までは「勉強」
大学生になると「学ぶ」になる。
勉強は強制の感があるが、学ぶというのは、本来自発的なこと。
大学生は自分で何をするかを選択して学ぶ(真似ぶ)ことになる。
選択によって、自分はどうなりたいのかという「個性」を伸ばすための手助けをすることが大学本来の役目だろうか。
とすると、昨今のような就職予備校みたいになっている大学は何なのか
就職するためのスキルばかりを学んで、大学で本来学ばなければならないそれぞれの「個性」を疎かにしてもいいのだろうか。
そんな就活スキルの高いだけの人間を企業は欲しいだろうか。
就職したい!という大学生のニーズにあわせて、無個性な集団を作る大学はどうなんだろうか。
あまりにも大学本来の役目から離れすぎている感は否めない。
などなど、ありがちな疑問にぶちあたった。
でも僕は、長期的視野に立てば、もしかしたらそれで良いかもしれないと思った。
無個性な集団が大量に生まれ、そういう人たちが周囲に充満するようになり、ネットやメディアで喧伝されるようになると、そういうのを良しとしない特異な人達が現れると思う。
その特異な人は、無個性な集団が大量にいればいるほど、逆に超個性的になってやろうとして驀進していくのではないか。
生き物はどこかで必ずバランスをとろうとする。
そういう原理が働くと思うので、無個性な大学ばかりでも良いのかなって思ったりした。
ー以下読書会後の思考ー
だけど、そんなことを言っていたら究極のところ、社会のために何かを頑張る必要がなくなる。
そうすると、あんまり良い方向にはいかない。
ということで、無個性な大学が減ることを祈りはするけど、自分の人生をかける程には興味のない僕がそれについて頑張る必要は無い。
そのことに興味関心ある人が、自分の問題として取り組めば良いのだ。
やりたければやれば良いんじゃない?
と、思う。
ー読書会後の思考終わりー
ラーメン次郎の話。
ラーメン屋は無個性になりがちだ。
その中で、ラーメン次郎は、超個性的な大盛りラーメンを作っている。
その個性的な大盛りラーメンというのは、近くの大学生からの希望だったらしい。
その希望を叶え続けたら、いまみたいなすごい大盛りラーメンになり、結局はそれがウケて繁盛店になっていった。
僕はその個性の作り方に注目した。
他の店との差別化のために大盛りラーメンを作ったのではなくて、ひとえに大学生からの要望を聞き続けたことで他を凌駕するラーメンが出来上がった、ということ。
大学生の希望を叶え続けようとしたその純粋な想いが、ラーメン次郎の個性あるラーメンを生み出し、繁盛店へと繋がったのではないか。
繁盛させるためにではなく誰かの希望を叶えるためというのが良かったんだと思う。
日本人はいかにして日本人のようになったのか
それは、国土の狭さ、四季、島国のお陰ではないか。
国土が狭いから、周囲と協力協調してやっていく民族性が形成され、四季の移り変わりのために、繊細な美意識を持った民族性を持つに至ったのではないだろうか。
疑問
国土の広さをどの時点で認識できたのか?
日本が島国で縦に長い国で狭い国土だという認識を、いつの時点でもてていたのか?
確かに。
そういう認識は昔の人にはなかったかもしれない。
とすると狭さとして認識していたのは、自分の周囲の身近な開発可能エリアの狭さを認識していたのではないか。
山が多い日本では、田畑にできる土地が少ない。
自然と土地の奪い合いに繋がるはずだ。
武士の土地に縛られた一所懸命という思想も、自分が認識できる範囲での田畑に出来る土地の狭さからきているのではないか。
ということで、日本列島の大きさを認識したのはずっと後になってからだけど、開発可能地域の狭さの認識はかなり昔から持っていてもおかしくない。
その自分の周囲の開発可能地域の狭さによって、土地を守ることを尊ぶ思想が生まれ、日本人の協調思想へとつながっている。
日本が島国であり、またそれが日本人を作る理由になり得るか。
日本に似ている国はあるか?
例えばイギリスは、島国だ。
だけどイギリスは、ヨーロッパと狭い海峡を挟んで対峙している。
ヨーロッパを統一した国が、最後に攻め込むのはいつの時代もイギリスであった。
島国だけども、大陸と隔絶できない場所にあるイギリスは、結局ヨーロッパ人と気質的に大きな違いを生むことはなく、島国根性が表象にでてくることはなかった。
他に四季があって島国で他国から攻められにくい(後述)国はあるだろうか?
日本が大陸から攻められたのが少ない理由は、半島のその先に日本があるからだ。
半島は世界の火薬庫で有名なバルカン半島があることからも、常に不安定なパワーバランスが宿命づけられている。
大陸を統一した国家が、半島を手にしてさらに日本へまで進むのは相当強く大きな国家じゃないと、果たせない野望であると思う。(維新までに日本に攻め込んできたのは元だけ)
結論!
だから、日本はすごく恵まれた立地の国である。
民芸
ものづくりの苦労を知ってもらうことで、物を大切にしようという考え方を持ってもらいたい、という活動をしている人がいる。
(誰か忘れた。。)
民芸は、土着の文化に価値を与えて芸術にすることができる。
死生観について
デカダン主義(インド?)と日本の死生観の違い
デカダン主義は、死に方そのものがどうであるか、を主なテーマとしている。
日本の死生観も死に方を大切にするが、死に方と合わせて生き方をも重視している点が違うと思う。
日本を代表する美しさを表すものとして、「桜」がある。
死に方は(散り方と儚さのこと)であり、生き方は(桜そのものの美しさ)である。
桜そのもの美しさと、散る時の儚さの両方があった上で、桜の美しさが際立つ。
桜の美しさの定義から象徴されるように、日本の死生観は、死に方と共に、生き方をも重視する点がデカダン主義との違いだと思う。
日本の死生観では、かっこ良く死ぬためにはかっこ良く生きなければならない。
この現世を大切にする意識が、日本の宗教性の堅実さへと繋がっている。(と思う)

スポンサーリンク
広告
広告

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする