街場のアメリカ論読書会 開催後まとめ

街場のアメリカ論 開催後まとめ
プロを御す方法
ビートたけしが始めて映画を撮る時、プロのカメラマン達に「あいつは芸人やから、なんもわからへんやろ」って見られて思い通りの映像が撮れない事を防ぐために、ある要求をした。
「ここにある噴水が気に食わん。
どけてくれ。
どけれないんだったら今日の収録は止める」
別に本気で噴水の位置が気に食わなかったわけじゃないが、
「俺は自分の思い通りの絵を撮るためやったら手段は選ばない」
ということを伝えることで、プロのカメラマンを制御しようとした。
プロカメラマンに無理難題を押し付ける事で、プロたるゆえんの型にはまったコストパフォーマンスが良い技術だけで終わらせるのではなく、ひとつ上を目指さなくてはこの人の下で仕事は出来ないという危機感を植え付ける戦略。
多分、プロを追い込むことによってパフォーマンスが一時的に下がることはあると思うが(無理するとどうしても、見落とす点が多くなって、ミスが発生し易くなる)それはビートたけし自身が見極めていくという自信があったから、プロの言いなりにはならない覚悟を行動で示たのだと思う。
清国からアメリカへの切り替わるタイミング
日本がアメリカを他者として選んだのは、ペリー来航時なのか?
敗戦からではないのか?
アメリカを他者として比較の対象としたのは敗戦後から。
だが、維新前に清国から他の国へと模倣する他者が変わったことは事実。
その他者とは、アメリカやイギリスやフランス等の「欧米列強」という大きなくくりを他者とした。
そこで、用途に合わせてドイツ式の陸軍を模倣したり、イギリス製の軍艦を購入したりしていた。
あくまでも欧米という大きなくくりを他者と定めていた。
ペリー来航によって変わったのは日本ではなく、英仏等の列強ではないか。
アメリカが正面切っての植民地政策をいきなり始めたため、今まで裏から日本を侵略しようとしていた列強がアメリカのやり方に刺激された。
その列強の変化を日本人は感じとり、維新へ向けて上へ下への大騒ぎをしながら驀進していったのではないか。
アメリカンドリームが生まれた理由
そもそもアメリカを建国した人達というのが、ヨーロッパからやってきた開拓意志の強い人々だった。
その人々が自力で開拓していくことによって、アメリカという国は作られたのであるから、何かを成し遂げた有能な者をアメリカンドリームとしてもてはやすことは、至極当たり前のこと。
能力があって出来る人が国を作っていったからだ。
その点、日本は国が出来る前に人々が住んでいた。
その限られた国土の中で、いかに上手に分配するか、という能力が君主に求められた。
だからこそ、成功者や新しいものを生み出す人をジャパニーズドリームとしてあがめる気風は生まれない。
ゆえに、国土国家の成り立ちが、国民の主義思想の根本になっている。
漫画から見る国民の本音
アメコミは、正義の味方として戦争をしてるアメリカを賞賛しない世界へ対しての不満が出ている。
日本の漫画はどうか。
ロボットを少年が御すという漫画が流行したが、今はどうなのか。
一昔、スラムダンクやドラゴンボールでは、修業をして強くなっていくという漫画が主流だった。
しかし現在は、テニスの王子様(テニスの天才が帰国した)やワンピース(実を食べるといきなり強くなる)、ヒカルの碁(平安時代の棋士が乗り移る)のように、「最初から天才」であることをもてはやすようになっている。
それは現代社会が、努力ではなくひらめきを求めることを良しとする思想が強くなっているからではないのか。
漫画というのは市場原理主義なので、社会に受け入れられる漫画しか残らない。
その市場原理主義の取捨選択によって、日本人が現在求めている深層心理がわかるための指標となっている。
漫画だからこそ、他のモノとは違ってより深層心理が表象し易いと思う。
何かの指標を幸せの基準にすることのしんどさ
経済指標が中国に抜かれたからといって、不幸になったのではないか?と不安に思うのはおかしい。
しかし、なぜそのような指標を日本人は自分の幸せに直結してると考えるのか?
比較することによって、今まである程度自分の幸せ度を測る目安になっていたからではないか。
しかし、そのような目安は、そもそもまやかしであって、幸せ度を測る指標としての正確具合というのは高くないはずだ。
じゃあ何を指標にすれば良いのか?
そもそも自分の幸せ度を、指標という他者に求める姿勢が、終わりのない不安の根元ではないか。
自分自身で自分を認める方が良い?
それは強い人だけでは?
オススメ図書
ちきりん著
ゆるく考えよう
自分の頭で考えよう
ソニーの凋落
ソニーがウォークマン市場で一位になったらしい。
ウォークマン市場にiPhoneは含まれない。
最近はiPhoneで音楽を聞くようになっているので、ウォークマンを使う人は相対的な少なくなっているはずだ。
そのウォークマン市場の中で一位になったからといって、何がすごいのか。
ソニーの思惑として「右肩下がりの我々が復活するためのシグナルとして、こじつけでも良いから一位になったという成果が欲しい」
ということかもしれない。
ソニーが一位になったから、「お、ソニーもやっと復活してきたな、何がソニー製品を買おうか」
というリテラシー度の低い人に対する購買喚起戦略だとしたら、さらに悲しい。
ソニーは元々良い商品を作る、ということがブランド価値だったはずだ。
それなのに、自分で矮小化した市場で一位になったという姑息な手段に訴えるまでにソニーは凋落したのか、と思わざるを得ない。
この内田樹読書会で色々な意見について考える過程で気づいた事が一つある。
それは、あらゆる問題を解決するための選択肢は、決断の瞬間までは多い方が良いということ。
あらゆる価値観を否定してゴミ箱に放りこんで選択肢を狭めることよりも、ギリギリまで多様な選択肢を維持しておく。
その選択肢を選ぶ過程で考えられていたことが、何か他の事へ流用できるような可能性になるかもしれない。
右へ左へ。
手前へ奥へ。
一つの問に対する広く深い立体的な考え方。
多数の選択肢を考えるのは大変だが、こういうクセをつけておけば、難問に遭遇した時に解決する方法が速く見つかるかもしれない。
のような事を思った。

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