日本辺境論 全トピック総まとめ

日本辺境論を最初から最後までのポイントを抜書きしながら、ある程度話がつながる?ようにしたまとめです。
それでも急に話が飛んだりはしますが、そこはご了承ください。

本を読んだ人が、ポイントを思いだすことには役立つと思います。
若干、私見も含まれているところもあります。

赤字はキーワード

日本辺境論全トピック総まとめ

日本の劣等感

問題は、先賢が肺腑から絞り出すようにして語った言葉を私たちが十分に内面化することなく、伝統として受け継ぐこともなく、ほとんど忘れ去ってしまって今日に至っているということです。

「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。
ほんとうの文化は、どこかほかのところで作られるものであって、自分のところのは、なんとなく劣っているという意識である。
そおらくこれは、はじめから自分自身を中心としてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境民族としてスタートした民族とのちがいであろう」

日本文化はどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いの形でしか存在しません。
ある制度や文物の変化する仕方が変化しない、というところに意味があり、ある種の思考発想のパターンがあるゆえに、変化そのものはめまぐるしく行われる、ということです。
すなわち、もっぱら外来の思想や方法の影響を一方的に受容することしか出来ない集団が、その集団の同一性を保持しようとしたら、アイデンティティの次数を一つ繰り上げるしかない。私たちがふらふらきょろきょろして、常に新しいものに飛びついていこうとするのは、そういうことをするのが日本人であるというふうにナショナルアイデンティティを規定したからです。

我々は、日本という国を語る時に他国との比較でしか自国を語ることが出来ない

ロジックはいつも被害者意識

状況を変動させる主体的な働きかけはつねに外から到来し、私たちはつねにその受動者であるという自己認識がある。
おのれの思想と一貫性よりも、場の親密性を優先させる態度、とりあえず長いものにまかれてみせ、その受動的なありようを恭順と親しみのメッセージとして差し出す態度、とりあえず今ここでつよい権力を発揮しているものとの空間的な遠近によって自分が何者であるか決まり、何をすべきかが決まる。
このようなことが当たり前のこととして、受け入れられて来た。
自分ではないものが決めた事を絶対の事と受け入れる場の空気が醸成されると、誰も反対しない。
皆が空気というものに沿って異議申し立てをせずに、意思決定していくことで、焦眉の危機的状況への対処を可能にした事例が歴史上に何度かあったからである。

辺境とは何か

辺境とは中華を中心とした、周囲の蛮国のことを指す言葉。

聖徳太子が「日出づる処の天子、書を、日没する処の天子に致す」
と送ったが、この対等外交の底意には、先方が使ってる外交プロトコル(中華が上で周辺国は朝貢国であること)を知らないふりをして、実だけとるという外交戦略であった。
それが許されたのは、中華の辺境に朝鮮があり、そのまた辺境に日本がある。日本人があまりに田舎すぎるので、対等の天子と言っても田舎者と一笑にされるだけで済んでいた。

足利義満が日本国王と名乗ったり、徳川将軍の中華に対する肩書きもくるくる変わっていたことも、
「中華皇帝にまじめに臣下の礼をとる気がない」ということを表している。
これは、中華秩序における辺境のそのまた辺境というポジションを受け入れることで、政治的文化的フリーハンドを獲得するために行ったのではないか。
大陸の律令制度を導入しながらも、科挙と宦官という日本にあまり馴染みそうもないことは導入しなかった自由、しないで良かった自由を得るための知らないふりであった。そうすることで、中華の思想をそのまま導入した朝鮮に比べて、柔軟な考え方の出来るフリーハンドを取得した。

九条と自衛隊の矛盾はテクニック

九条と自衛隊の矛盾についての思考停止も狡知の一つである。
それは、アメリカの軍事的に無害かつ有用な国であれという命令が、つまり日本はアメリカの軍事的属国であれというメッセージを、日本人は無理やり矛盾したメッセージと読み替えた。
矛盾してると言い合うだけで一歩も解決に持っていかないという技巧された無知によって、日本人はアメリカの軍事的属国というトラウマをごまかすという、難問を棚上げすることで、不問に処すというテクニックである。

秀吉の朝鮮侵略は中原に鹿をおっただけのこと

中華秩序の常識として、「中原に鹿をおう」という絵柄は、辺境人が中華に侵入し、新しい王朝を建て、華夷秩序が再生するというプロセスに当たり、それこそ華夷秩序の動的構造そのもの。
だから、軍事力が充実したら、外交上の必要性がなくても、とりあえず蕃族に武威を示し、朝貢を促すというのは華夷秩序の常識であり、秀吉の朝鮮侵略も、華夷秩序に従っただけのことである。

日本人は常に後発者の立場

日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る。
それは、諸国の範となるような国に日本はなってはならなということを国民は無意識的に思っていて、諸国の範となるような国はもう日本とは呼べないということを私たちが知っているからである。
範を示すには、自らの実存を自分がなした誓言の担保として差し出すことのできる人々だけしか、新しい世界標準を作り出すことはできない。
自分の主張について、それを主張するに先立ってその正しさを担保する保証人はいないということ。

私たちのほとんどは、国家の問題に対して自分の考えを持っていない。
そういうことを自分の問題として考えたことがないからである。
そういう難しいことは、誰か偉い人や頭のいい人が自分の代わりに考えてくれるはずだ、もし意見を聞かれたらその中から気に入ったものを採用すればいい、と。そう思っている。
だから私は、普通の国にしようと出来もしない努力をするぐらいであれば、とことん辺境でいこう!というご提案をしたい。

辺境のメリット

辺境は常に起源から遅れているということになる。
私たちは常に遅れている、という考えは、師弟関係をうまく結べるという能力の向上につながる。
学びのパフォーマンスを最大に上げるには、学ぶ前にそのメリットについて要求するようなことをしてはならない。そういう姿勢では、真のブレークスルーは経験できないということを、師弟関係において我々は古来から知っている。
それは空気であり場の匂いであり、言葉に出来ない場の匂いや空気のようなものを尊重する姿勢が、知的ブレークスルーに対して高い開放性を確保していた。
その無防備なまでの開放性は、一時的に愚鈍になることによって知性のパフォーマンスを上げることができるということを私たちが、暗黙知的に知っているからできているのである。

意味のわからないことをさせる理由

兵法の極意とは、学ぶ構えのことである。
師弟関係を起動させるために、師はできる限り弟子から見て無意味と思える仕事をさせる。
もし、意味のわかることを修行としてさせるとどう考えるか。
「私の今ある物差しで考えてわかるんだ。それなら、修行内容も自分の想定範囲内だろう」となり、自分の物差しの範囲から出るという思考に繋がらず、それは全開のオープンマインドから得れる知のブレークスルーに至る可能性を排除してしまうことになる。

なぜ師匠は私にとって効用の意味がわからないことをさせるんだろう?
私はこの行動に何に意味があるのかよくわかっていない、という愚かさを引っ張り出して、自分が意味があると思えない行動をなぜやっているのかわからないということは、自分の持ってる物差しでは計れないことを師匠は知っているのだという認識に至る。
それが、師匠への問いかけという形で学びが発動され、知のブレークスルーをおこすためのオープンマインドへと繋がるのである。

辺境の弱点

自らを霊的辺境であるとする態度からは、宗教的寛容が導かれる。
その反面、辺境人がおのれの霊的な未成熟を辺境であるから良いとしてしまうことから、未熟さのうちに安住してしまう傾向がある。
道という概念は、だれも見たことない目的地を絶対視するあまり、おのれの未熟、未完成を正当化してもいる。
その反面、道の概念の素晴らしいところとして、自分は師に比べたらまだまだだという立場を明確にしてるだけで、自分が出来ないことをも伝えることができてしまうということが可能になっている。

辺境人の最大の弱点は、私は辺境人であるがゆえに未熟であり、無知であり、それゆえ正しく導かれなければならない。という論理形式を手放せない点にある。

啐啄の機

  1. 自分のことを考えていると、そこに隙が出る。
  2. 自分の事を考えずに動け。
  3. 相手がこうきたらこうする!という姿勢は、すでにそれが後手にまわっていることになる。
  4. 隙がないというのは、自他の対立関係がない、敵がいないということである。
  5. 間髪いれずに反応するということは、すなわち反応をしていない。
  6. 反応しないためには、主体の概念を変えるしかない。
  7. 起源に遅れるという宿命を負わされたにもかかわらず、今ここで一気に必要な霊的深度に達するためには、主体概念を改鋳し、それによって時間をたわめてみせるという大技を繰り出すしかないというソリューションを作り出した。
  8. その出来事の瞬間瞬間に主体は生まれて変わっていく。

知らないということが学ぶ理由

機というのは、時間の二項図式そのものを揚棄する時間の捉え方である。
間を挟まず即変わるということは、どこでそれに出会うかを先駆的に知っているから出来る事。
学びは、これを学ぶことの意味や実用性についてまだ知らない状態で、それにもかかわらず、これを学ぶことがいずれ生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろうと先駆的に確信することから始まる。
私たちは、学び始める時点では、そのことを学ぶことの意味や実用性についてまだ知らない。
このまだ知らないということが、学ばなければならないことの当の理由である。

学ぶ力とは先駆的に知る力のことと言える。
自分にとって死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のこと。
この力は、資源の乏しい環境の中で生き延びるために不可欠の能力であった。

日本語の特徴

日本語コミュニケーションの特徴は、メッセージコンテンツの当否よりも、どちらが上位者かの決定をあらゆる場合に優先させる点にある。
日本語は表意文字と表音文字を併用する言語。
日本語には、英語やフランス語で論じられた事を議論できる言葉がある。
日本語では、いつも外来の高尚な理論=男性語、地場のベタな生活言語=女性語の二項対立が反復されている。
日本語独自の、真名と仮名が絡み合い、渾然一体となったハイブリッド言語という、もうそこを歩むのは日本語しかないというこの言語をもって、我々は進化の袋小路を歩み続けていくことを、日本人の召命として粛然と引き受けるべきではないかと私は思う。

スポンサーリンク
広告
広告

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする