自然と人工の違いはあるのか?vol2 自由意志

自然と人工の違いはあるのか?
前回の続きから
前回では要するに、自然と人工の違いは
自由意志と自然の摂理の違いがあるのか?
というところまで進んだ。
自由意志とは
自分は物事を自由に考え自由に選択している、とする考え方。
対する自然の摂理は、自然が生まれてから決まっている決まりごと。
この自由意志というものが、果たして存在するのかどうかが、自然と人工の違いを考える上で、大きなポイントになっている。
それでは自由意志について考えてみよう。
僕は自由意志は存在しないという立場をとっているが、
さらっといきたいので、自由意志が存在しないという先達の論を転載しよう。
「人間の脳を含めた身体の動きは、因果的法則によって決定されている。これが、今日の自然科学がとる基本的な立場である。」茂木健一郎
「ある人物がある行動をとることは、その背後に必然性がある」
アインシュタイン
自分で考えて「自由に」決断していると思っているのが実はそうではない。
全て物質が生まれた当初から決定されていることで、自由意志は存在しないということだ。
この原理はこうである。
人間等の生物を含む、この世に存在するあらゆる物体は
原子や分子の集まりで出来ている。
その全ての原子の情報をある時点で完璧に読み取れば、その後の原子のふるまいは正確に予測することができる。
だから、自分で選択して決断したと思っていることでも、実は既にそう決断することがはじめから決まっている。
あなたが生まれることも、その仕事につくことも、あらゆる細かい動きは、全て予測することができのだ。
だけどこういう意見もある。
「自由意志そのものは、一つの幻想であるかもしれない。しかし、自由意志のクオリアをメタ認知で持ちうるような状態に脳があるということが、健全性の証しになる。」茂木健一郎
自由意志が自分にはある!と考え前向きに行動していくことこそが、人間として健全な状態だ。
ということだろう。
「どうせ自分のやることなすことは既に昔から決まっていたのなら、努力する必要なんてなくね?」
ってなるよりも、
「自由意志はあると信じて行動する方が、良い人生を送れますよ。」
ということなんだろう。
ここまで書いてきたけど、えらいひとたちのこの議論に決着はまだついていない。
「自由意志が無い」というのに反論できそうな考え方である量子論
「神はサイコロをふるのか」
という問題もまだ解決していないので、自由意志がないと決めつけるのは、早計かもしれない。
(それでも所詮確率論だし、自由な意志にはなっていない)
というわけで、少し話を大きく捉えて結論付けたいと思う。
「宇宙の誕生から今まで、人間が意志を獲得して悩むことまでも含めて、だいたい予定通りに来ている」
宇宙を作った人がもしいたとすれば
「誤差の範囲で色々あるけど、
取り敢えずは予定通り進んでいるんじゃね?」
と言っているはずだ。
原子のふるまいとしては、誤差の範囲で当初の予定とおりにきているということで、よろしいかと思う。
(今書いているこの時点で多分、この問題を打ち破るのは、生命とは何か?ということになる気がしている)
ということは
自由意志がないということは、
「人間の意志と自然の摂理は同じもの」
であり
「全ては自然の摂理(因果的法則)によって運営されている」
ということだ。
だから、現在解き明かされている認識では、人工物と自然物の違いはないということになる。
だけど、また反論が思い浮かんでしまった!!
「たとえ原理的に同じものであっても、自然と人工は違う気がする」
って言われそうな気がするし、僕も自分で考えときながら、こんな理屈では納得できていない。
とするとこの問題は、こう言いかえることができる。
なぜ人は、自然物と人工物が違うものだと感じるのか。
なぜ人は、人間が作ったものだけを人工物だと認識して区別するのか。
という問いにすることができる。
これは、次回に問いたい。
また次回!

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