自然と人工の違いはあるのか?
なぜ、人は自然物と人工物が違うものだと感じるのか。
なぜ、人間が作ったものだけを人工物と認識して区別するのか。
川の流れを山物や雲物と区別することなく「自然」と一緒くたにするのに、人間が作ったものを「人工」と区別するのは何故なのか。
おそらくこれは、人間が作ったからである。
と言えるかもしれない。
同じ生物である、我ら人間が作ったものであるので、人工と区別しているということだ。
じゃあ、人間以外の生物が作った物はどうだろう?
例えばアリ塚。
蟻が作ったアリ塚を、人間はどう認識しているのだろうか。
アリ塚も「自然物」と認識するのか、蟻が作った「蟻物」と認識するのか。
もはやこれは感覚の話なので、まずは自分の感覚を考えてみる。
アリ塚を見たときに、僕はどう感じるのだろう。
・・・・
なかなかはっきり言明できない。
蟻物と見るかもしれないし、自然物と見るかもしれない。
その時の状況によって変わる気がする。
アリ塚が、ある地形にたくさん林立していれば、ただ「自然物」と認識するかもしれない。
アリ塚が、ジャングルの中にポツリと現れれば、その蟻が作った「蟻物」と認識するかもしれない。
要するにこれは、認識範囲の問題か。
その物事をどのスケールで捉えるかによって、投影する対象が変わるということか。
広く認識すると自然と捉え
個と認識すると蟻と捉える。
人それぞれが持っている、何かを投影する対象の豊富さによってこれは変わると思う。
広い範囲のアリ塚を作ったのは、「○○種の蟻」という知識があれば、自然と認識することなく、○○種の蟻と認識するだろう。
認識しようとしているその対象の広さを認知説明できる言葉を持っていれば、それは個として認識することができるということだ。
対して、投影する個々の対象となる言葉を持っていなければ、「自然」という曖昧で全てを包含する言葉で認識することになる。
ややこしい話になってしまった。
要は
それを説明できる言葉を持っていれば個として識別し、
言葉を持っていなければ、自然という広義の意味を持つ言葉で捉えることになる、ということだ。
これは、その言葉を持っているか、その対象が自分にどれだけ近いか、がその分かれ道であろう。
「自己との遠さ」
この遠さというものが、「自然物」に対する「人工物」「蟻物」etc・・・、と区別するかどうかの違いである。
「人」は「自分」という生物と限りなく近い存在であるからこそ、他人が作った物を人工物として自然との対比を行っている。
なぜ区別するのかはわかった。
しかし、まだ疑問が出てくる。
なぜ人は、人工物はあまり好きではなく、自然物を好むことが多いのか。
「俺は人間が作った物のほうが好きだぜ!勝手に決めつけるな!!」
って言われそう。
もちろんそうだ。
だからこの問いを考えるには、もう一段問いのレベルを引き上げるしかない。
なぜ僕は、
「人は皆、自然が好きなはずだし、
人工物が好きな人よりも自然が好きな人の方が多いはずだ」
と自信を持って言えるのか。
ということについて次回、考えていきたい。
うっとぉしい問いをいつまでくるくる続けているんだ?!と思ってらっしゃる方もたくさんいるかもしれないが、懲りずに次回も付き合ってやっていただければ、うれしい。