坂の上の雲をモンゴルで読みたくなった理由

坂の上の雲

モンゴルへ来てからもう8ヶ月が経とうとしています。

やはり外国で滞在するというのは、その国のことと同じぐらい日本のことをも考えさせられます。

そして外国人と日本人との違いを嫌でも見せつけられることでもあります。その違いがあまりにもたくさんあるので「我々日本人は一体なぜこのような民族になったのか?」といつも考えるようになりました。

外国人は「日本人は謙虚で誠実な民族だ」的なことをよく言いますが、それは日本人がすごいのではなく、ただ単に大陸から程よく離れたところに程よく大きな島があったが故に生まれた国民性の結果でしかないと僕は思っています。日本人は生まれたときから「日本人の倫理観」なるものを親から友達から周囲の人間達から教え込まれますが、これも地理的な狭い国土でたくさんの人間が生活する上で必要なことだったからに過ぎません。

何も日本人が優れて賢いからとかでは全くないと思います。

話がそれました。

坂の上の雲の再読を開始したという話がしたいのでした。

この本の時代は、封建的な古い体制の国家が速やかなる明治維新を遂げ、眠れる獅子といわれた清国を倒し、その後世界一の陸軍国だったロシアをも破ってしまうところまでを描いた作品です。

(ロシアを青息吐息ながらも破ってしまったことが、その後の日本国民の増長を招き、そしてあの破滅的な戦争へと突き進むことになるのですが・・)

この明治維新から日露戦争までの日本というのは、まさに日本の良いところをすべて体現していったような歴史だと思います。

明治の男達にはまだサムライがいました。日露戦争までは戦争にも騎士道精神がありました。そしてたぶん日本史の中で、日本が一番輝いていた時代だったことでしょう。

そんな時代を熱く生きた日本人の吐息を僕はまた感じたくなりました。

日本人が誠に日本人らしい時代だったときの息吹を感じる事で、僕の今のテーマである「我々日本人は一体なぜこのような民族になったのか?」についておぼろげながらもその輪郭が見えてきそうです。

なぜこの時代が日本人を表していると感じたのでしょうか。

それは今の日本人が、日本人の理想とする日本人像とは少し違うからかもしれません。今の日本人というのは、あの徹底的にやられた敗戦の衝撃をまだ引きずっているような気がしています。しかし今の日本人にはあの良かりし頃の姿はありませんが、その姿がないが故に次の新しい日本人像を作り上げる途中に今の日本はある、ということも言えそうです。

どちらにせよ、現在ではその姿がよくみえていません。

だから良かりし頃に滾っていた日本の空気を感じ取ることが一番の近道だとおもいます。

つらつら書いていると長くなってしまいそうなのでこの辺でやめておきますが、要するに僕は「かっこいい日本人を見たい」ということだけです。

その「かっこいい日本人」が坂の上の雲の時代にはたくさんいました。そんな日本人に触れる事で僕もまた明治の男たちのような、エネルギー溢れる生き方でモンゴルを生きて行けたら良いなと思います。

ちなみにこのような「かっこいい日本人」(ロシア人もいます)を僕がイメージに合わせて描いたものがコチラです。
坂の上の雲

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