日本人とは誰のことか

本稿の目的は、日本国にこれからどんどん外国人や’日本人’(定義は後述)増えていくにあたって、不要な軋轢を無くして皆がハッピーになるにはどういう心構えが必要かということを考える土台を提供するものである。

決して日本人による外国人差別を助長するような目的ではない。

人間とは何か

日本人とは誰かを考える前に、人間について考えてみたい。

僕はモンゴル人にこそ人間本来の姿が残っていると感じている。

不安定な遊牧世界だからこその人間力

遊牧民の生活

モンゴルの遊牧民は家畜を増やして生計を立てている。四季に合わせて草の豊富な草原へ移動し、家畜たちに草を食べさせて、増えた家畜を食べたり売ったりすることで今まで生きてきた。

遊牧民は気楽なイメージがあるが、実際には一瞬一瞬の選択ミスで生きていけなくなる可能性が常にある。

一夜にして家畜が狼に食べられてしまうかもしない、冬にゾドという雪害により大雪が降れば、地面から草を食べることのできなくなった家畜はバタバタと死んでいく、家畜ドロボウに盗まれるかもしれない・・・

全財産が草を求めて草原をさまよっているのだ。普通の神経ではやってられないだろう。

遊牧民が家畜を失ってしまうと、田畑に種をまくように新しい家畜が生まれてくることはない。

大金をはたいて家畜の数を揃えるか、他の遊牧民のところへ小作人として働きに出るか、都市で働くかしか生きていく術がない。

しかし遊牧民が都市に出てもできる仕事は限られているのが現実だ。

家畜が全滅してしまう雪害「ゾド」

数年前に雪害である「ゾド」がきた冬、草原に雪が降り積もって家畜が自力で食べ物が食べられなくなった。

モンゴルのいつもの冬はそれはど雪が積もらないため、秋までに肥え太って冬は少ない草を食べながらなんとか春まで生き延びるというのが、モンゴルで生きる家畜の一年のサイクルである。

だが雪害のゾドが起こってしまうと、降り積もった雪によって、家畜は自力で雪の下に埋まった草を掘り起こすことができなくなり、餓死を待つしか無くなる。

全ての家畜は救えなくても、出来る限りの家畜を救うため、家畜の食べ物を買うために遊牧民のニャムオチル(日本名ゆうすけ)が、冬に一番稼げる仕事として炭鉱で12時から6時まで石炭を掘っていた。

顔を炭で真っ黒けにしながらも、日本へ帰る僕を笑顔で白く輝く歯を見せながら見送ってくれたことは忘れらない印象となっている。

モンゴルの深夜の炭鉱作業で得れる賃金は6時間で3000円前後。

500円で家畜10頭ほどの1日の草が買えるので、60頭ほどの家畜の1日の食べ物が買える程度にしかならない。

僕も日本から幾ばくかのお金を送ったが、ゾドがきたからと言って炭鉱作業のような命の危険がある仕事をしなくても生活できるように、日本から旅行者を呼び込まなくてはならないと真に思った。

来られた方の口コミにより、今では年間100人ほどの方が訪れるキャンプになることができたが、ニャムオチルが大丈夫になっても、周辺の遊牧民が生きていけないようでは意味がない。

これからは周辺で生活する遊牧民にも仕事を手伝ってもらって、遊牧を辞めて街で働くのではなく、立派な遊牧民として生きていくことができるような態勢を作っていかなければならない。

遊牧民から溢れでる生きるための力

遊牧民というのは気楽そうに見えて、毎日が戦いである。

日本での正社員や公務員になれば一生安泰というのとは天と地の差がある。

しかしそんな不安定な状態に置かれている遊牧民の笑顔が素晴らしいのは何故なのか。

東京の通勤風景で見る安定しているはずのサラリーマンの顔が暗いのは何故なのか。

生きていく、食べていくためには安定したサラリーマンがベストなはずだが、不安定の中にこそ、人間の生きる活力が生まれてくるということなのであろうか。

モンゴルの遊牧民というのは、不安定で厳しい自然に生きる、農耕民族とはある種の対極にある姿として存在しているので、我々には彼らを別次元の世界で力強く生きる生命体として、我々にはない新しい何かをもたらしてくれる存在と写るのではないか。

僕がそうだが、一度モンゴルに来てしまうと毎年毎年いかないと気が済まなくなってしまう方がたくさんいる。

この感覚は、モンゴルの大自然に癒されたというよりも、モンゴルの遊牧民に潜む我々にはない力を敏感に感じ取ることによって、いつもその力に触れていたいと本能が欲しているような気がする。

日本人の定義

センシティブな日本人の定義について触れる前に、先に僕自身の立場について説明するが、僕は現在日本とモンゴルを行き来していて、普段コミュニケーションする人も日本人よりモンゴル人の方が多い。

「日本人」(「日本人の定義は後述)の定義にギリギリ当てはまっているかもしれないが、1年間モンゴルに住んでいたこともあり、僕は後述する「日本人」であることに必須の礼儀と建前をあまり重視しないので、半分モンゴル人だと思っている。

半分モンゴル人が言うこととしてここから先をご笑覧いただきたい。

ある思想家の受け売りだが、日本人の定義は下記だと思う。

日本人の定義とは

父母や祖父祖母も日本人として生きてた上で、その人自身が日本で生まれ、日本で育ち、そして日本で生活している人のことを、我々は「日本人」と定義する。

批判を覚悟で申し上げるが、上記の「日本人」に当てはまらない人が、日本国籍を取得し、’日本国籍を取得した元々は外国人の日本人’(以下’日本人’)になったところで「日本人」である人々は’日本人’を同胞の「日本人」とはみなさないだろう。

「日本人」から「日本人」として教育され、「日本人」として育ってきたからこそわかる日本独特の道徳観や宗教観のようなものを身につけ、「日本人」ならではの礼儀と建前を習得することができたかどうかが、「日本人」とみなされるために日本では大切なこととされているからである。

外国人が日本国籍を取得したからと言って、「日本人」として遇することはできない。外国人が日本国籍を取得して’日本人’になった、とみなすはずだ。

’日本人’は「日本人」ではないのだ。

『‘日本人’などと言って「日本人」と区別するのは人種差別ではないか』

という声が聞こえてきそうだが、そもそも国が異なれば立場の差というのは必ずつきまとってくるだろう。

僕もモンゴルに1年間住んでいた時、「日本人」として遇され、モンゴル人と良くも悪くも決して対等に扱われることはなかった。

僕の場合は「日本人」だということで好意的に特別に扱われることが多く、「日本人」だからといって嫌な思いをしたのは数えるほどしかない(ほとんどは中国人と間違われたことが理由だった)

「日本人」だから得をしたところが多かったと思う。

だが、得をしたか損をしたかに関わらず、外国人というのは、よその国で平等に扱われることはあり得ないことだろう。

日本にいる外国人も、もしかしたら外国人だからといって損をすることが多いのかもしれないが、逆に外国人であるから日本で生活をしていて得をしていることもあるはずだ。

多民族国家や異民族国家は別として、外国人が平等に扱われないというのは世界の中では当たり前のことだと思う。

そもそも「日本人」同士の間にも対等な関係は存在しない

そもそも「日本人」であっても、お互い対等な関係となることはあり得ないはずである。

「日本人」は、礼儀と建前によって、お互いが対等な関係であるように振舞っているが、礼儀と建前をなくして接すれば本性が現れて、年齢、性別、社会上の立場、美醜やハゲてるかどうかなどによって明確な差が生まれてくる。(僕もハゲてきた)

「日本人」はこういうお互いの差を普段は表に出したくないからこそ、礼儀や建前によって出来る限り不要な摩擦を無くすことによって「日本人」は狭い島国で発展してきた歴史があるのではないか。

「日本人」であるというのは日本で生きやすくするための礼儀と建前による技術とも言うこともできそうだ。

だが「日本人」というのは技術であるのだから、たとえ日本で生まれ育たなくても「日本人」の振る舞いを学習することで後天的に「日本人」になることができても良さそうだ。

だが残念なことに、この「日本人」の技術には、後天的には習得できない「見た目」も含まれているので、問題は簡単ではない。

大坂なおみは「日本人」

大坂なおみの人生を僕は詳しく知らないが、日本語が上手でないことと、外見が日本人のようではないことから、「日本人」の定義に当てはまらないことは明確だろう。

多分、本音のところ誰もが大坂なおみを日本人テニスプレイヤーとして紹介されることに最初は違和感を覚えたのではないだろうか。

大坂なおみが「日本人」であることは、「日本人」の名誉を高めることに作用しているので誰も何も言わないが、例えば大坂なおみと同じような人が犯罪を犯したりすれば、日本人として紹介されたりもてはやされたりすることはないだろう。

要するに、「日本人」は後天的な学習だけではなることが出来ない選民的な思想の元に成立している概念であると言える。

ここまで書いてきて、自分の思う「日本人」というのはなんと偏屈で狭いものであるかに気づき、暗い気持ちになってしまったので、「日本人」についての説明はこの辺りで終わりにしたい。

僕がこのような文章を書いた目的は、曖昧になっている日本人を明確にすることで、これから我々(「日本人」’日本人’、外国人)がどのように付き合っていけばみんながハッピーになるかを考えるためである。

ではどうすればいいのか。

おぼろげな霞のようなものは見えているが、言葉にできるほど確かなものではない。

また、僕の意見は間違っているところがあるかもしれないので、ここからは色々な人と話しながら議論を深めていきたいと思う。

日本人の未来について一緒に考えよう!

「日本人」’日本人’、外国人などの色々な立場の人たちでディスカッションしたい。

お互いの認識の相違を理解して、これからどうしていけばいいのかについて、ぜひ前向きに議論することが目的だ。

これからの日本は、もっとたくさんの外国人が日本で生活していくことになると思うが、「日本人」の意識と外国人の意識に乖離がある状態では、ギャップを埋めるために急速な変化が起こるような気がしている。

’日本人’や外国人を受け入れる精神的な度量を持つ必要がある。

そこに到達するためにはどういう思考が必要なのかについて考えていきたい。

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