日本式のおもてなしがモンゴルでは不要な理由

「やっぱり日本式のおもてなしは無理か」

遊牧民ゲルキャンプに滞在しているお客様に言われて、その場で日本式おもてなしをモンゴルで行う必要がないことを説明できなかったし、説明すると怒られそうだったので変わりにここにて説明させていただく。

なぜモンゴルでは日本式おもてなしが不要なのか

日本式おもてなしの定義はたくさんあると思うが、モンゴルで日本式おもてなしが無いと言われた理由は以下の2つだと思う。

1、時間を守らない。

2、お客様第一主義ではない。

日本式おもてなしが不要な理由

この2つをきっちり行うことが日本式のおもてなしに繋がるのだと思うが、これをやるとモンゴルらしさがなくなってしまい、モンゴルまで来た意味が半減する。

だからこのような日本式のおもてなしは不要である。

もちろん日本式おもてなしが当たり前だと思って最初はカリカリしていた人も、数日も滞在するとそういうことはどうでも良くなって顔つきも柔らかくなっていく。

そして時間などというものは、飛行機の時間などを除いてはどうでも良い要素であり、本当に大切なことはそういうところではないと気付いて日本へ帰られる。

それでも乗馬の開始時間や食事の開始時間などを細かく気にするような人は、日本の旅行会社が主催するツアーに参加してほしいし、そういう人が来ることによって古き良いモンゴルの雰囲気が失われてしまうことを恐れるので、批判を恐れずあえて文章にすることにした。

1、時間を守らないことについて

誤解を招くと思うので先に記載するが、最初の迎えの時間や空港への送る時間などの大切な時間はきっちりと行っている。

乗馬の開始時間や食事の開始時間などの、わりかしどうでも良い時間については、必ずしも守る必要はない。

乗馬の時間は10時からが基本だが、時間通りに始まることは滅多にない。

馬は広大な大地で放牧されている。

厩舎で飼育されているなら簡単だが、モンゴルではそうではない。

乗馬するためには、朝に馬を探しに行って遊牧民宅まで追い込んできて馬を捕まえなければならない。

10時きっかりに必ず始めなければならないのであれば、遊牧民にかかるストレスが高くなる。

仮に10時きっかりに始めれるように厳しく伝えたとして、やってきた馬と一緒に遊牧民は普段と変わらないかもしれない。

だが、遊牧民に時間を守らせるということは、自然の流れに合わせて生活してきた彼らそのものを否定することになるだろう。

また、教育によって時間を守る遊牧民もいると思うが、時間を守る遊牧民というのはただの牧民でしかない。日本で時間に縛られて生きる人々と同じだ。せっかくモンゴルまで来ているのに、時間に縛られた遊牧民と出会って何が良いのか。

もちろん日本の常識通りの世界になるので快適かもしれない。だがそこにはモンゴルで楽しく乗馬したという以上に得るものはないだろう。

世界最後の遊牧国家であるモンゴルの遊牧民だけが持っている我々と異なる何か触れる機会を損ねている。

これは時間が守られない以上に旅行者にとっては大きな損失ではないか。

時間などを細かく言わないことによって、みんなが自分の意思で馬を探しに行って、鞍をつけて、一緒に乗馬をする。

これは遊牧民の普段の生活と変わらない。

遊牧民の普段の生活のサイクルの中で乗馬するからこそ得れるモンゴルの自由というものを体験してほしい。

どうでも良い時間については守る必要がないのはこういう理由がある。

2、お客様第一主義ではないことについて

お客様は神様という言葉があるが、僕はお客様という言葉が好きではない。

お客様である限り、お客様が求める通りにこちらが動かなければならない。

だが、モンゴルではお客様が求める通りに動くことが、モンゴルの良さを殺してしまってお客様のためにもなっていないことがよくある。

そもそもモンゴル人は親切である。

人が困っていたらなんとか力になってあげたいとみんな考えている。

モンゴルのバスでは、日本では明らかに席を譲らないような風体の若者でも、近くに老人が来たら嫌々ではなく自分から席を譲る。もちろんモンゴルのバスはかなり荒い運転になるので老人が立っているのはすごく危ないことだからでもあるが、みんなが一様に席を譲りまくる姿は感銘を受ける。

ツアー中でも、色々な要望が出てくればできる限り対応してくれるし、知恵を絞って実行する方法をみんなで考えて、なんとか満足してくれるように頑張るのがモンゴル人の中では当たり前になっている。

ただこれはお客様に対して従属する姿勢ではない。あくまでも対等な関係の上で、二人で協力して最善を考えようとの立場のものだ。

モンゴルではどんなに注意していても、想定外のことが度々起こる。

そういう時に頼りになるのがやはりモンゴル人である。

なんとかして問題を解決して当初の希望に沿ったことを出来るだけ実現しようと努力する。

もはやそこにはビジネス上の利害など関係なくなっていて、真に目の前の困っている人を助けてあげたいという欲求によって行動を起こしているのだ。こういう姿勢に感動して、みんなモンゴルを好きになってしまうのだ。

稀にモンゴル側の立場などを考慮せず、自分の要望だけをぶつけてくる”お客様”もいる。

そういう場合は無理をしてでも応えようとするが、その先にこちらが原因ではない問題が起こった場合、モンゴル人はそっぽをむいてだから言わんこっちゃないという態度になってしまい、一緒に問題を解決しようという意気を失わせてしまうことになる。

無理して要望をこなすということは、もはや対等な関係ではなく従属している関係ということになる。

予想もしない問題が起こり得るモンゴルにおいて、モンゴル人を従属させて成功することは不可能であろう。

頭のいい人がJICAなどでモンゴルへ何かを教えるために行ったが、成果が出なかったことをモンゴル人の怠慢だと決めつけている人がよくいるが、頭のいい人がモンゴル人に何かを教えることに失敗しているのは、従属を求めているからである。

日本の古い学校教育では生徒を従属させることによって、先生という上の立場から下の立場の生徒へ情報を伝えるのが当たり前となっている。

だがモンゴルでは同じモンゴル人同士ならまだしも、モンゴル人へ外国人に対して虚心に学ぼうという姿勢を求めることは間違っている。

モンゴルの文化を理解した上で、どうすれば”我々”がより良く向上していくのかという立場で接する必要がある。

モンゴル人に対しては常に対等な関係として接することが、お互いの理解を深めて前進していくことが不可欠である。

モンゴルでは日本式おもてなしが不要

以上の理由から、僕は遊牧民に対して日本式おもてなしを求めることはない。

これからも時間には遅れるし、無理な要望を聞くこともない。

僕が努力することは、自然な遊牧民の姿がこれからも残っていけるようにするだけである。

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