思えば「日本の森は優しかった」
モンゴルで二ヶ月過ぎてよくこう思う。
というのも、モンゴルには日本のような優しい森というものが存在しない。
僕は森という場所について今まで意識せずにほいほい遊びに行っていたが、森で遊ぶことのできない今の状況になって初めて森の役割に気づかされた。
なくなって初めてわかる良さとはこういうことを言うのだろうか。
日本の森の優しかったところは
「包まれている」という感覚が得られるところだとおもう。
綺麗に舗装された道から、一歩森に入ると光景がガラリと変わる。
色々な形をした木々が太陽を求めてめいめいの方向に伸びていたり、湿り気のある地面には大小様々な生き物が蠢いていたりして、自分の感覚を刺激してやまない。
そして木の隙間を辿ってやってくる太陽が光と影のコントラストを生み出すことでぼくの目をも楽しませてくれる・・・
森で出会うものについて書いていけばきりがない。要するに日本の森は多様な自然を体の周囲すぐ近くで感じることができるというところなのだ。
そして体の全方向から感じれる生き物の息吹に包まれることによって、ある種の安寧のようなものを得ていたのだと思う。
じゃあモンゴルの自然は優しくないからダメなのかというと決してそうじゃない。
モンゴルには日本とはまた別の自然が発する気のようなものがある。
まだ二ヶ月強しかいないのでモンゴルの自然を偉そうに語るのは憚られるが、あえて言うならモンゴルの自然に囲まれていると自分のことが全て見透かされているように感じることが多い。
日本では滅多に見る事の出来ないところまで続く大地。
たぶん、あまりに雄大な自然を一度に見ることによって、自分の小ささが否応無く意識させられているのだとおもう。
また、モンゴルの大地には日本と比べて生き物の息吹が少ないのも特徴的だ。
少ないが故に厳しいモンゴルの大地で生きている牛や馬等の姿からは、屹立とした個体の力を感じずにはいられない。
「自分の小ささ」を容赦なく求めてくるこの自然に最初はしんどさを感じていたが
遠くの山をぼーっと眺めてみたり、馬から落ちてみたり、夜の草原に寝転んで星空を眺めているうちに「こういう自然もいいなあ」と思えるようになった。
いうなれば日本の自然は基本的にプラスの充足を与えてくれるが、モンゴルの自然からはマイナスの充足をもらうことができるといった感じだ。
マイナスをもらえるとは変な言い方だが、つまり引き算思考のようなものだろうか。
ちっぽけな自分を意識させられつつも「そこにかすかに存在する小さな自分」というものを逆に強く感じることができるのがモンゴルの自然である。
自分の体を覆っていた殻のようなものがとれていく。
この心地良さはモンゴルで体験してみないとわからないだろう。
ぜひ人生で一度はモンゴルの自然に触れてみるのも一興だとは思う。
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