日本のメディアは真実を伝えない方が良いという真実

日本のメディアは真実を伝えない方が良いという真実
「日本人は辺境の民族であり、辺境思想が強い民族である」
辺境とはもちろん中華が中心であり、その周辺にモンゴル、ベトナム、韓国といった辺境国があり、そのまた海を挟んでさらに辺境の辺境に、島国日本がある。
我々島国日本は凄まじく辺境の国なんだ、という意識が古来ずっーと日本人の深層心理刻まれてきており、辺境なんだから、中心の良いとこだけ真似して、意味不明なところは無視して自由にやっていこう!という開き直りの自由さが日本にあったため、発展成長がいつの時代もただの辺境国を圧倒することが出来たんだと思う。
がしかし、中心はどこか自分とは違うところで作られるものだから、絶えず周りをキョロキョロして、新しい事に飛びつかねばならない!というフラフラしたところが常にあり、自ら全く新しい物を作る考えるということが出来ない(もしくは苦手)=自分は人より劣っている=変わらねば!
という思考に至ってしまいがちである。(だからビジネス書が売れるんですね)
島国ならではの同質性と、辺境ならではのキョロキョロ思想。
キョロキョロと新しい物事を探し続け、見つけるや否や同質性を周囲に確かめるが如く、日本中へ一気に広がる。
これが、維新エネルギーの源になり、日露戦争から日中戦争を挙国一致で戦い、最近では小泉ブームや政権交代、橋本旋風を巻き起こした。
というような事を(自分の意見も追加されていますが)日本辺境論で内田さんが書いている。
前置きが長くなりましたが、何が言いたいかと言うと、新しい物事を見つけるや否や、二者択一の判断を下し、一気呵成に広まっていく同質性を他人にも期待する姿勢というのは恐ろしいということだ。
大衆は常に間違う、というのは有名な言葉ですが(普段の生活に忙がしいから政治とかを真剣に考えてるのは余程の暇人かすでに大衆ではない人しかいないので、断片情報だけで安易に判断してしまう)常に間違う大衆が、同質を求めて違う意見までも封殺し、挙国一致論を作り上げてしまう。
東日本大震災の時のTwitterも毛色が違うが、似たような事があった。
地震情報がTwitterで飛び交う中、地震に関係ないつぶやきはご遠慮願いますといった空気が形成され、「お腹減った」等のつぶやきをしようもんなら、リプライで叩かれる、といった異常な空気が、本来自由なツールであるTwitter上でさえも形成されてしまった事に、日本人の恐ろしさを感じた。
テレビを観ても地震映像ばかり、Twitterでも地震つぶやきばかりであったため、西日本に住む人は、自分が地震を体感してないという罪悪感に加え、目の前の普段の日常と、テレビやTwitterで起きている異常事態とのギャップに精神的にもやられた人は多いと思う。
まだ大衆化していなかったTwitterでさえ、あのような状況だったんだから、日本人の同質性を求める異常さは凄まじいのではないだろうか。
そんな日本人に対して、メディアは世界で起きた事をそのまま流して良いはずはないのではなかろうかというのが本題。
正しい情報はネット上で興味ある人が見れる状態であればよく、テレビでは細心の注意を払って、大衆の同質性を刺激しないようにする必然性があった。
だから今のメディアは、巧妙に流す情報を取捨選択している。
そうすることで、日本を誤った方向に向けないでおこう!という意識がメディアにはあるはずだ。
だからと言って、メディアがメディア固有の意思を持ち、日本人を我々が思う方向に導くのだ!という自意識は持つべきではない。
メディアはただ漠然と、流す情報をより分けるだけ行い、その流し方で世論を形成していくような事はやるべきではないのではないか。
そうすることで国民側への暗黙のメッセージとして、我々は情報を取捨選択しているという当たり前の事を分からせ、自分で考え判断しなければいけないという事に早く気づかせるべきだと思う。
今後は、ネットで多様な情報に触れて、安易に他の日本人に惑わされない日本人が増えていくので、メディアの在り方が今のままで良いはずはないが。
少なくとも、戦後のメディア側の作戦としては、日本を平和ボケ国家に出来た(もちろん良い意味です。平和ボケでも生きていける事を世界に証明した国家であるので)ことは大成功であった。
平和ボケという新しい価値観のようなものを生み出しつつある日本は、世界へ新しい風を引き起こすことが出来ると思う。
願わくは、ネットにより多様な価値観を持った人々が過半数を占めるまで、このボケボケ感は続いて欲しいと切に願う。
iPhoneからの投稿

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