セカシュー
今日12月30日の毎日新聞一面トップが、世界でシューカツ「セカシュー」(セカ就)の若者たちといった内容だった。
(大学卒業or中退していきなり海外で就職することをセカシューという)
そこで取り上げられてる若者はこう言っている
「日本では閉塞感ばかり感じていた。経済成長している躍動する国へ飛び込んで成功したい」
記者は、こういった若者たちが感じているのは「日本が嫌だ 逃げ出したい、とかではなく日本への拒絶感なのです」と書いている。
日本への拒絶感
確かに今の日本は、戦後の高度成長期を支えた人達が社会のの上の方にどっかり腰を据えてるため、上を見上げても自分の行く先はなく、しかもそのおっさん達の老後を少ない若者たちが稼ぐお金で賄わなくてはならなくなる
と言われている。
この糞詰まりを回避するためには、成功するしかない。
しかし、日本で成功するには、おじさん達の組織のやり方に自分を合わせていくか、新しいことをやるしかない。
しかし成功することはかなり難しいだろう。
「なぜ、日本で成功を目指さないのか?」
と思うかもしれないが、
僕もそうだが、多分海外へ出て行く人はこう思っている
「日本で成功するための労力と成果は、海外でのそれに比べてかなりしんどい」
日本は上を見上げると成功した人間ばかりだ。
そこへ、あまたの競争を勝ち抜いて自分も到達しようと思うなら並大抵の努力と運がなければ無理だろう。
それならばいっそのこと、海外へ飛び出した方が成功する確率は高いんじゃないか。これから成功するやつがいっぱいいる海外で、そいつらと一緒に登って行く方が、はるかにエキサイティングで楽しそうだ。
と僕は思う。
もちろん、世界には危険がいっぱいある。
日本人だというだけで強盗に会うかもしれないし、水道水は飲めないし、食べ物でお腹を壊すかもしれない。
ハイリスクであることは間違いない。
日本はその点、安心だ。
治安が悪くなったと言ってもまだまだ夜道は大丈夫だし、水もご飯も美味しい。会社に勤めればそれなりの給料が貰える。
日本ほど、あらゆる面で安定した良い国はない。国のトップが何人変わろうが社会不安は起きないし、仕事的には笑い話のネタが増えるだけだ。
日本に仕事はまだまだいくらでもあるし、若い人で就職出来ない人の八割はおそらく今までの怠慢が原因だろう。
仕事のできる人間はどこでも必要とされている。
また、仕事がしんどいしんどいと言いながらも、やってる内容と貰える給料を考えてみると、まだまだ高いだろう。
だが、日本では自分よりもっと楽してお金を得ている人がたくさんいえように見えるし、周囲の人たちの仕事内容や給料がすごく気になって比べてしまい、不満だけが溜まる。
また、お客もこちらも仕事にクオリティを求め過ぎるあまり、労力と成果が見合わない余計な仕事もしなければ競争に勝てない。
これはしんどい。
それでも日本で程良い人生を送る分には、この国はうってつけだろう。
お先が真っ暗だと言っても、なんだかんだと言いながら、日本はうまくやっていくはずだ。
それでも世界へ飛び出して行きたいのだ。
うだるような熱気の中で死に物狂いで働いて国を伸ばす原動力に自分自身の血肉が交わっているという高揚感に身を置きたいのだ。
こう考えていくとやはり、かつての日本の高度成長期を進めて行ったおっさん達の子供なのかと思う。
世代的には孫だと思うが、これはあながち無関係じゃない。
僕は、ひいお爺ちゃんが死んだすぐ後に生まれてきたから「お前はひいお爺ちゃんの生まれ変わりだ!」とかなんとか言われたことがある。
けどこういう感覚を持ってる人は案外多いんじゃないだろうか。
自分は親父の息子という立場よりも、ひいお爺ちゃんの生まれ変わりであるという立場。
ひいお爺ちゃんという、微妙な世代の離れ具合がなんかいい。
ひいお爺ちゃんというと、戦争を世界で戦った人たちだ。
日本のために命を投げ出したひいお爺ちゃんたちの生まれ変わりが、日本に見切りをつけて世界へ飛び出して行く若者だという物語
一見、日本のために戦ったひいお爺ちゃんと日本を出ていく僕たちは、対極に位置しているように見える。
でもそれは視野が狭い。
世界へ飛び出ししていく若者達は、日本を離れるというリスクヘッジでもあり、日本人というものを本当の意味で背負っていくという気概でもある。
この気概というものは
「世界に身をおいた方が日本人というものを強く意識できる。」
といった、よく聞く話とは少し違う。
何が具体的に違うのかは、うまく言葉に出来ない。
たぶん、あっちに行ったらわかると思う。
後もう一個言いたかったのが、セカシューという言葉だ。
ぼくは、セカシューという言葉を作ることで、世界へ飛び出して行く若者達を「世界で就職すること」という日本人の枠内に収めようとしているように見える。
こんな言葉は糞食らえだ。
病気でもそうだが、なんでもかんでも病名をつけていってリスト化し、枠内に収めて既知として扱うことに嫌悪を感じる。
セカシューという言葉は、世界で就職するという意味だ。これは間違ってないんだけど、正しくもない。
そんな短い言葉の中に収めて理解して安心しようとする。
こういうことそのものへの拒絶感を持ってるがためにセカシューをするのが若者達なのに、結局その枠内に収めようとしてくることへの不快感を感じる。
だから、セカシューという言葉でその人たちを理解したつもりにならないで欲しいと僕は願う。
でも日本人はかつて、福沢諭吉とかが欧米の言葉に日本語をどんどん当て込んでいったから、日本語で難しいことが考えれるようになり、英語が話せなくても母国語で第一線の仕事ができるアジアでは稀有な国になった。(内田樹論)
だから、新しい言葉をどんどん作っていくのは”良いこと”なんだと思うけど、こちらとしてはやっぱり、安易に当てはめて欲しくないというのもある。
でも日本の未来を考えるならば、たくさん言葉を作っていった方が良いに決まっている。
要するに、言葉で語れることは少なく、心の中というのは案外複雑ということなのか。
おわり。