はいさい!たけっし〜です。
当ブログの一番下〜〜〜〜の方においてある僕が作った名言bot。この中から本日は、「@kenzou_bot2」のご紹介をします。
北方謙三って誰?
ハードボイルドな歴史小説を書く人。とても強そう。氏の言葉として「とりあえずソープに行け」が有名。
北方謙三botって何?
氏の作品の中で歴史小説から「これぞ漢の言葉」という名言を抽出したもの。登録名言数は、kenzou_bot、kenzou_bot2と合わせて1000文ほど。
botを愛するファンの中には、「天をも焦がす熱さ」といった感想や「モンゴルで騎馬隊を作りたくなった」といった人がいるとかいないとか。
ここからは北方謙三bot2の内容に関してです。
北方謙三bot2の収録作品は?
収録作品
「北方三国志」「楠木正成」「破軍の星」「武王の門」「悪党の裔」「道誉なり」「陽炎の旗」「波王の秋」がある。
見所は?
日本の帝を中心としてそれぞれの大義でもって戦う武士の話もオススメですが、今回は「北方三国志」を題材にその熱さの片鱗をご覧頂こうと思います。
名言で送る 北方三国志の名シーン「夷陵の戦い」編
「わかりました。 これは、天下への第一歩ですな。天下の前では、同盟など意味はありません」呂蒙 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 20
呉が蜀との同盟破棄を決断したところです。呂蒙が関羽を倒すための計略をひっさげて出発するところですね。
「戦は、勝っていたと思います。父上は、見事な戦をされました。あまりに見事だったので、曹操は孫権に離間をかけたのです。心の中で、曹操は父上に負けたのだ、と私は思っています」関平 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 20
関羽軍は呉軍に囲まれ最後を待つ段階です。関羽が見事な戦をしていたからこそ、曹操は蜀と呉に離間の計をかけざるを得なかったと、関羽の子 関平も父の強さを最後まで認めていたということでしょう。
「死が別れではない。自分にそう言い聞かせた。一度兄弟となった男との、別れなどはない。関羽が、先に死んだというだけのことだ、自分も、そして長兄としてきた劉備も、いずれ死ぬ。」張飛 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 20
「人は、死ぬものなのだな、関興。長く戦陣で生きてきたが、決して死なぬ人間がいる、と俺は思っていたような気がする。大兄貴と小兄貴。この二人は、死ぬわけがないのだと勝手に決めていた」張飛 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 20
関羽が死んだ事によって張飛が死を達観し始めています。
「孔明殿の北進の戦略は、実に卓抜なものだった、と私は思っています。どこにも隙は見出せませんでした。神の戦略だ、と私は思ったほどです。しかしふり返ると、神の戦略なるがゆえに、人の愚かさを見落としていたのではないか、とも思うのです」馬良 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 20
「緻密に練りあげられた戦略というものは、細かいところがひとつ崩れると、すべてが崩れてしまうということを、私は関羽殿の死で痛いほど知りました。 時として、戦略は鉈のようなものがいい。鉈で薪を断ち割るような戦略が、効を奏することもあると思います」諸葛亮 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
この言葉はとても好きです。戦略が完璧だったが故の誤ち。完全無欠なんていうのは存在しえないということでしょうか。
「殿と、関羽、張飛の二将軍。この三人には、余人に知れぬ通じ合う思いがあるのだろう。 出会った時から、私は痛いほどそれを感じ続けてきた。 蜀という国を擲っても、殿は孫権を討とうとされるだろう」諸葛亮 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 20
「それにしても、蜀とはおかしな国ですね。漢王室の再興を叫びながら、孫権ひとりを討つことにこだわる。 私は、嫌いではありませんが。 男とはそういうものだ、という色がはっきり出た国ではありませんか」馬良 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
国のことより義兄弟を大切にする。はっきりいってむちゃくちゃですが、そこの筋を通さない事には国をも成り立ちえないという決意のようなものが伝わってきます。
「兄弟の仇を討とうとするのが、劉備という男なのだ。それをやらなければ、劉備は劉備でなくなる。そしてそういう男だからこそ、自分は魅かれたのではないか。」諸葛亮 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
「なにも、考えることはできなかった。 張飛が、死んだ。関羽に続いて、もうひとりの兄弟も死んだ。 ひとりきりになったのだ。そう思った。他の誰が死のうと、たとえ孔明が死のうと、自分がひとりきりだとは感じないだろう」劉備 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
張飛も死んでしまいました。死ぬときは同じ時と定めた兄弟が二人ともいなくなったとき、劉備の心は壊れ始めます。
「この戦が間違っているとは、劉備は思っていなかった。 大義にもとる。幕僚の中で、そういう意見を出す者もいた。 しかし大義以前に、自分には守らなければならないものがあるのだ。それすら守れずして、なんの大義だという思いがある。」劉備 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
大義よりも大事なものがあるからこそ大義を成す国が作れたということでしょうか。
「闘う方が、楽なのです。だから軍人は、敵を前にすると、すぐ闘いたがるのです。陸遜殿は、耐えておられる。私には、それがよくわかります」韓当 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
「そんなことを、一校尉たる私などに申されるべきではない。大将は、ひとりで迷い、悩み、苦しむものだと思う。私が赤壁に従軍した時は、周瑜将軍がおられた。すべての苦しみは周瑜将軍ひとりが引き受けられ、私はただ闘うことだけを考えていた」韓当 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
ここからは弔い合戦を挑んでくる蜀を受け止める呉のシーンに変わります。陸遜が呉の司令官で韓当は歴戦の勇士ながらその部下として、若い将軍の血気を抑える側にまわり、若き司令官の陸遜を助けています。
「それでいいのだ。 ただ、考えなければならないなら、最後の最後まで考え抜くことだ。途中で決めこんでしまうべきではない、と私は思う」韓当 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
「考えなければならないなら最後まで考え抜く」、これはなかなかわかっていても出来ないことですね。これも好きな言葉です。
「夷陵で止めるか夷道で止めるか、陸遜はまだ決めていなかった。決める必要もない。 やわらかく、そして素早く対応するのが、韓当の言う戦の虚実だと、陸遜は考えはじめていた」陸遜 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
決める必要もない」、と陸遜は達観しました。ここまで自由な思考にたどり着いたことが、呉の勝因へと結びつきます。
「勝ちに乗るとこわい。これは、長年の経験から、はっきりと言える。しかし乗ったのではなく乗せたのだとしたら、自ずから蜀軍の隙も見えてくるはずだ」韓当 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
「勝ちに乗るのではなく乗せたとしたら・・・」、これも好きです。韓当は百戦錬磨の老人なだけあって言う事が深いですね。
「ここまで考え抜いた。あとは、なるようになるのだ。負ければ、死ぬ。戦では当たり前の、その覚悟だけがあればいい」陸遜 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
達観しまくりですね。怒りにまかせた蜀とは対照的な冷静さです。そろそろ蜀の敗北が見えてきました。
「光が、飛んできた。よく見るとそれは火で、どこからか射込まれたようだ。 夕方の光線の中で、それは不思議に命を持ったもののように見えた。 きれいだな、と劉備は一瞬考えた。 敵襲という言葉が、方々で谺した」劉備 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
変わって蜀の陣営です。陸遜の火計が成功した瞬間です。劉備は自分の陣地に向けられる多数の火矢が決定的な敗北を予感させながらも、関羽や張飛が死んで現実を離れたところから捉えている劉備の心の描き方がすてきですね。
「こういう戦は、するべきではなかったのだ。 いまにして、はっきりとそう思う。 関羽と張飛の仇を討とうとしたのは、二人のためではなく、自分のためだった。 死者にしてやれることは、なにもない」劉備 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
「おまえは、止めたな、私を。魏こそがまことの敵であると。そんなことは、私にはわかっていた。関羽と張飛を殺した者が、まだ生きている。それが、耐えられなかっただけなのだ。そして、兵を出した。大将の資格はあるまい」劉備 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 21
劉備が負けて初めて「死者にしてやれることは何もない」ということに気づきました。大きな後悔とともに劉備の命をも縮めてしまいます。
「私は死ぬ。死ねば、恨みは消える。関羽、張飛とともに、あの世で孫権を苛めてやろう」劉備 #北方三国志
— kenzou_bot2 (@kenzou_bot2) 2014, 2月 14
劉備が死ぬことによって、呉への恨みも消して本来の敵である魏へむかえ、ということを言っています。死ななければ消えないような恨み・・三人の絆はそれぐらい強かったということでしょうか。
いかがだったでしょうか。
「お前の解説のせいで熱さが冷めちまった!」ってお怒りの方もいるかもしれません。でもそれぐらい熱い方ならもう北方謙三ワールドへ飛び込んでも火傷しません!
さあ、一番下まで画面をスクロールし名言botをフォローして、その熱い世界に浸ってみてください!
コメント
高校時代、『男はハードボイルド (ワニ文庫)』を読んでいた人がいましたね。
「童貞=汚れたシャツ」という表現が、ハードボイルドですねw
http://blog.livedoor.jp/textsite/archives/50691436.html
おお、言い得て妙すぎます笑
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