集団的自衛権について元自衛官のたわごと

日本の軍人ほど危ない生き物はいないとおもう。

もう5年以上も前になるけど僕が自衛隊のときに「もし戦争が起こったらどうする?」と同僚や先輩達に一度だけ聞いた事がある。みんなはっきりした答えはなかったけど、たぶん命令を忠実に遂行しようとするだろう。たぶん、僕たち日本人っていうのは何か難問が発生した場合、お上の指示通りに動くというのが最も安心するように心の中が出来ている。

明治維新から太平洋戦争までの戦いで、日本の兵士たちはバカみたいに忠実に勇敢に戦闘で死んで行った。各戦史を読んでみると、いつも敵側の国から「なぜ日本の兵士はこれほどまでに蛮勇なのか理解できない」という言葉がよく出てくる。

これは同調圧力とか思考停止能力とかのあらゆる日本人的な思想が、兵士というものを生み出すのにものすごく適しているからだとおもう。

現代の日本人も昔の人と考え方はまだそれほど変わっていない。

何か事が起こった時、日本人は鬼に変身してしまう。

「一所懸命」という武士という生き物を象徴する有名な言葉。昔、一つの田畑のために命を投げ打って戦った日本の武士たちがいた。この言葉の裏返しには今いる場所を捨てたら行くところがない、食べて行けないといった「逃げ道がない」という強迫観念がある。

この逃げ道のない日本人を追い込んでしまうと日本人はいとも容易く鬼に変わっていく。その恐ろしさを日本と干戈を交えた国々ならわかっているはずだ。日本という国を「戦争が出来る普通の国」にしたらいけない。

集団的自衛権とかに賛成している人達が思っていることはたぶん「今の日本は自分の国も自分で守れない劣った国だ。だから普通の国にしなければいけない」といった至極当然の言い分だとおもう。でもこういう「世界に負けない普通の国になりたい」という思想が明治維新を生み出し太平洋戦争までの恐ろしいばかりの成長速度でばく進して滅んだ道や、高度経済成長で歩んだ道と同じ類いのものだとおもう。

集団的自衛権に反対している良識ある多くの国民達は、そういった古い物語では日本の行く末にまた破滅が待っているとうすうす感じているからだと思う。

だから新しい日本の物語を考えないといけない。

日本の若い人達の中に、今までの古い物語を振り捨てて自分の生きたいように生きている人が増え始めている。田舎で農業をしたり、町おこしをしたりといった、お金をたくさん稼ぐことが偉いといった古い物語から脱却しつつある若者が増えている。たぶんこういった動きのなかから次の目指すべき日本の姿が見えてくるような気がする。

たぶん、一つの方向を目指して頑張ろう!といった物語はもう生まれないとおもう。個人が行きたいところへ向かってすきなように走って行く。たぶんそういう物語になる気がする。

個人が好きな方向へ進むのに障害になるものがある。境界だ。

境界といわれるものはたくさんあるが、その中でも一番の境界は国だろう。もう少し時代が進むと、国という枠組みが邪魔になってくるはずだ。そのときに「国境ってなんのためにあるの?邪魔じゃね?」みたいなことにならないだろうか。

今はつまらない島(失礼)のためにわちゃわちゃ大金と労力をかけてやっているけど、お互いが「こんな島どうでもよくね?」みたいな感じになることって出来ないのかな?

まあ思っていることはそんな感じ。

写真は全然関係ないけどモンゴルのゴルドックという町。

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