「語学を学ぶのは壮大な時間の無駄ではないのか」への反論

反論シリーズ第2弾。

「語学を学ぶのは壮大な時間の無駄ではないのか」

モンゴル語を勉強していてこんなことが頭をよぎりました(笑)

(ここでの「無駄」は頭の成長にとってという意味です)

確かに、モンゴル語の学習に膨大な時間をかけたところで得られるものは、「モンゴル人と会話が出来る」ということだけです。モンゴル語を学ぶ時間を日本文化の学習に当てた方が日本人としての教養は高まるに決まっていますし、日本語の難解な本に挑戦する方が何倍も賢くなれそうです。

僕と同じことを思っている人がいるはずだと思って検索してみると、いました(笑)

 
英語の学習は壮大な「時間の無駄」である
英語の先生なのにこのタイトル。中身を読んでみるとなかなか鋭く代弁してくれる言葉がありましたので引用させていただきます。

英語の学習は壮大な「時間の無駄」であるからの引用

語学の学習において、その言語をかなりの程度までマスターする過程において膨大な時間を消費して(私は浪費と言いたい)学習していく教材、それらには全く 中身というものがないのです。英語に絞って語るなら、そこにあるのは言語としての材料が詰め込まれているか並べられているだけであって、英語をマスターし てそれを駆使して何かができるようになるまでは、実に無意味な機械的な学習を果てしなく続けなければなりません。それは実に退屈で時間の浪費です。

また日本語については

日本語の最大の強みは、表意文字である漢字の上に、二種類の表音文字(カタカナ・ひらがな)を持つことです。この三種があるために、日本語だけで全ての事象を表現することができます。

「日本語だけで全ての事象を表現」については異論がありますが、概ね僕の思っていたことを簡潔に述べられていました。

しかし!

しかしです!

英語の先生ならば批判だけで終わらないで、語学学習することのメリットも述べていただきたかった。上記の内容では「全く自分のやっていることを全否定して終わり」という結論になっています。これではみもふたもないじゃないですか。

そこで先生のためにも(?)僭越ながら、僕がこの続きを考えさせていただきます。

語学を学ぶことのメリット

・外国人と会話する事が出来ます。

・外国に住む事が出来ます。

・外国で仕事をすることが出来ます。

・・・・・

確かにできることの幅は広がりますが、これだけでは「ただ出来る事が増えただけ」にしかなっていません。幅は増えるけど肝心な個人としての思考能力が劣っていては、何も意味がありません。単純に会話が出来ても右から左へ言葉を流すだけのことしかできません。それはあなたじゃなくても出来るし、誰にでもかわりは勤まるものです。

ということはやっぱり語学を学ぶのは壮大な浪費なのか・・・・という陥穽に陥りかけましたが、大丈夫です!

僕がモンゴル語を勉強しているのは無駄ではないと、今から証明してやりましょう!!

語学を学ぶことの本当のメリット

上記で「外国人と会話できることがただ出来る事が増えるだけ」って書きましたが、僕は国も生活習慣も考え方も文化も何もかも違う人と意思の疎通が曲がりなりにもできるということは、単純にすごい事だと思います。そこから具体的に何が得れるのかを明確な言葉にする力はありませんが、「自分とすごく違う人と話せた!」という感動は何物にもかえられない喜びになりうると思います。

肩肘はらずに、ただ純粋に交流が出来る事の喜びを求めるだけでも僕はいいと思います。だって人生なんですもん。

知らない言語が脳に及ぼす影響

他にも僕がモンゴル語を学ぶ過程で気づいたことがあります。

それは「母国語以外に触れることで自分の思考に及ぼす影響は未知数」だということです。

例えば、日本語は母音が(あ、い、う、え、お)の5つですが、モンゴル語は(あ、え、い、お、う、お、う)の7つあります。「おо、うө、おу、うү」(モンゴル語も表記しました)って意味わからんかもしれませんが、この四つは全部音が微妙に違います。半年たってやっと聞き取れるようになってきましたが、この母音の数が違う事からくる衝撃は相当なものがありました。

一つは、僕の耳が日本人専用になっていたということです。モンゴルで一緒に勉強している言語学者さんによれば、「人間は生まれてから必要のない音はどんどん捨てていく」らしいです。だからモンゴル人は7つの母音を聞き分ける耳になって、日本人は5つしか聞き分ける事のできない耳になっているということです。

聴力に影響してくるってすごいですね。

またこの二つの音の差によって、言語が発する音というものは本来もっと曖昧なんだなという気づきも得ました。

日本語の発音は他の言葉に比べたらはっきりしているように感じます。その点、英語とかでは音の境目がもっと曖昧になっているように感じます(日本人だからかもしれませんが)

この曖昧さから、「言葉は一つの意味だけで定義できるものではない」 とか「世界はもっと曖昧ではないのか」といった考えが生まれてくるわけですが、話が変わっちゃうので割愛。

とにかく母国語とは違う言葉を話しているときは、その時の考え方や感じ方までもが変わってしまうし、考え方までにも影響してきます。

長々と細かいことを書きましたが、要するに日本で日本語だけを勉強していたのでは得られない体感があるということを言いたかったのです。上記の例ではそれが「言葉や世界の曖昧さ」といった事を、肌で口で声で耳でそして全身で!感じれました。

おわりに

色々と細かいことをごちゃごちゃ書きましたが、「これだけ細かいことを書かないとメリットが説明できない!」と僕が思っているのは、やっぱり語学をぼーっと学ぶだけでは日本人にとって「無駄でしかない」ということの裏返しなのかもしれません。

語学を学ぶ事はそれなりの目的意識がないと、「壮大な時間の無駄」に陥りやすいのだと思います。

「語学を学ぶだけでは壮大な時間の無駄になる」ということをよく理解して、その先にあるやりたい事に向けて頑張るしかないのだと思います。

語学を学ぶことって、「何かすごい新しいものや面白い事に接近できそう」というイメージがありますが、そのイメージだけで飛び込んでいくには少し厳しいところなのかもしれません!

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