若者よマルクスを読もう
書評
この本で著者は何を伝えたかったのかを、読書会が中止になったのでかわりに考えてみた。
・高校生向けなのに、なぜこんなに難しいのか。
石川先生と内田樹との往復書簡の形式の本書。
高校生にもマルクスの面白さを分かって欲しいとの目的で書かれた本だ。
だがしかし!
石川先生が書いているところは難しすぎる。
何回読んでも意味不明で、読む気が失せる。
それはただ単に、僕の理解力が乏しいだけなんだけど、それにしても難しすぎる。
石川先生のマルクス好きが高じたのか、
「あれもこれもそれもあれも!」
という感じになっている。
マルクスに良さがいっぱいあるのは、もちろん理解している。
だけど、いっぱい盛り込みすぎて難解になった本を、果たして高校生が根気よく読むだろうか?
間違いなく読まないだろう。
僕も石川先生の項はほとんど飛ばした。
何回か根気よく読んでみたけど、やっぱり意味不明。。
石川先生の話を理解するためにはマルクスかその主義についての前知識がないと分からないと思う。
担当編集者が「石川先生、この辺は難しすぎるからちょっと省くか、解説をつけませんか?」
と確認していることは間違いない。
それでも、内田樹と石川先生は往復書簡そのままの文章を本にしている。
なぜ、こんな本を内田樹は高校生向けだと謳ったのか。
仮説1
それは、内田樹が、「高校生向けなのに難しすぎる」という矛盾を織り込むことによって、読者に向けて知性の葛藤を生み出し、その葛藤に挟まれることによって大きなパフォーマンスを得るための道を示している。
そして、「高校生向けなのになぜこのように難しいのか」のように深読みさせることそのものが、学びの発動のスタートであり、どんな事からも学ぶ事ができるという人間を錬成するに至る道だ!ということを言外に伝えたかったのだ。
(考え過ぎです、ハイ。。)
仮説2
内田樹は、この本の全編に伏流している
「マルクスを楽しげに語る無邪気な大人」
という姿を高校生に見せたかったのだろう。
その熱を帯びてマルクスがいかに凄いかを語り続ける文章から、「こんなに先生方が熱く語るマルクスってどんな人なんだろう。。。」
と思わしめ、そんなマルクスに興味をもってもらいたかった。
また、マルクスの良さについて一編の本では語り尽くせるはずもない。
結局は、マルクスの本を読まないとマルクスの良さは絶対にわからない。
だからこそ、マルクスに接してもらうためには、マルクスの解説を細々とするよりも、「大人の子供のような熱意」のみを伝えることによって、自ら学習に入ってもらわないとダメだ。
自ら学ぼうという動機こそが、何を学ぶにせよ、まず一番大切な事であるのだから!
「よし、マルクスを読んでみよう!」
と高校生に次の行動への着火点にこの本はなろうとしたのだと思う。
・この本でマルクスのイメージを変えたかったのではないか。
マルクスは強硬で気持ちが悪い共産主義者のためのものではなく、誰でも文学として知的錬成のために「使える」格好の材料としての地位を与えたかったのではないか。
そうすることで、鋭い知性というものがどういう事なのかを、現代の若者に向けて、肌にビリビリ響いてくるマルクスの文章で、体感してもらいたかったんじゃないだろうか。
僕はマルクスに対して、気持ち悪い共産主義者が錦の御旗に掲げる、黒黒とした悪の親玉というイメージがあった。
しかし、本当はそうではない。
マルクスの文章は鋭くどぎついところもたくさんあるが、それはあのどうしようもない時代の空気が生み出したものであるんだろうな、と思う。
マルクスは社会を大きく掴んで括りあげ、断言する鋭さがある。
その大きな物語を描く意識の大きさと、その話の持って行き方のロジックの凄さこそが、マルクスから刺激を受けて学んで欲しい事であるに違いない。
この知性の大胆な大きさこそが、マルクスに触れることで若い人に感じてもらいたい事なんじゃないのかな、と思う。
先生という、知性ある(とされている)大人が熱をあげるマルクスという存在。
この大人の熱とマルクスの大きさを知ってもらって、次のマルクス本へと進んでもらうために、この本を作ったのだと思った!