- 名画で読み解く ハプスブルク家12の物語 (光文社新書 366)/中野 京子
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~名画で読み解くハプスブルク家12の物語~
この本を買ったのは、650年にも渡って王朝を維持した家というのが
はたして何者だったのか!について知りたかったからです。
ハプスブルク家のシンボル
双頭の鷲
ハプスブルク家の人々は自らを紙に選ばれた特別な存在として血を誇り、
その裏づけは、五つの宗教と十二の民族を何世紀もの長きに渡って束ね続け、
神聖ローマ帝国皇帝の座をほぼ独占してきたという自信でした。
もっとも多くの国の君主を兼ねたのもハプスブルク家で
カール5世はヨーロッパ史上最多の70以上の肩書きを持ち
マリア・テレジアの正式称号は
「オーストリア女大公、兼シュタイアマルク公、兼ケルンテン女公、兼チロル女伯・・・・・
」
と兼が延々40以上つらなっていた。
このかくも強大な一族の源流とはどこなのか?!
はたしてどんな身分から、神聖ローマ帝国皇帝の座へ上り詰めたのか。
とても気になるところ。
ハプスブルク家の源流は、10世紀ころスイス北東部の片田舎にあらわれた弱小の豪族だったそうな。
日本で言えば、甲斐の武田信玄といったところでしょうか。
その豪族から2,3代を経た11世紀始め
「ハービヒツブルク城」が建てられる。
そして12世紀に入り、この城を本拠とする子孫がハプルブルク伯爵を名乗り
当事点をもってハプスブルク家の始まりとされる。
これは、領地分捕り合戦時代における伯爵と名乗るだけの力を持った一族との証でもある。
領地もそこそこ広がっていたようだ。
それから百年経過した13世紀、まだまだ田舎の貧しい豪族だったハプスブルク伯
ルドルフに、まさに運命の転換点というべきビッグチャンスがめぐってくる。
それが神聖ローマ帝国皇帝の座。
なぜこんな弱小豪族に皇帝の座がくることになったのか。
群雄割拠だったこの時代、神聖ローマ帝国皇帝になったところで
何の実質的利益は増えることはなく、ただの名誉職であった。
しかし仮にも皇帝、その名前の持てる栄光はすさまじく
神聖ローマ帝国内の有力諸侯は足の引っ張り合いをして
なかなか皇帝の座を決めきれずにいた。
20年間も空位の時代が続き、痺れをきらした教皇が
「お前たちで決めれないなら、俺が人選しよう」
と言い出したので、仕方がなく皇帝を決めることにした。
その選考基準が、出来る限り無能でこちらの言いなりになる男
その結果選ばれたのが、ハプスブルク伯ルドルフ!!
この頃のハプスブルク家は痩せた領地しかなく、戦争能力の低い55歳のおっさん
だったから適任に思えたのであろう。
そして、周囲の諸侯もこいつなら安心だろうということで
神聖ローマ帝国皇帝の座をgetするのであった!
もちろん、皇帝になっても領地は増えるわけではないので力は全くかわらない。
そこへ、隣国の強大なオットカル1世が、いちゃもんをつけてくる。
「なんでオレよりよわっちいのが皇帝なんだ!」
皇帝のルドルフは戦争を決意する。
しかし、帝国内の諸侯は応援すると口ばかりで兵力は貸してくれない。。
共倒れになるのを狙っていたのだ。
戴冠5年後、貧弱な軍隊を率いる神聖ローマ帝国皇帝と、強大な軍隊を率いるオットカル1世が激突する!!
大方の予想はルドルフに勝ち目なしだった。
確かにまともに戦っては勝ち目はなかっただろう
当事の戦争とは、昔ながらの
「やあやあ我こそは!」
という騎士道精神全開の戦争形式だった。
そこでまともにやっては勝ち目がないルドルフ皇帝はなりふり構わない計略を用意する。
「伏兵」という、当時では美しさもヘッタクレもないような方法を使い
前方でオットカル1世が「やあやあ我こそは」
とか言ってる隙をついて、側面から伏兵を突撃させ、混乱したオットカルは戦死。
そのまま敵は総崩れになり、勝利を手にする。
そして、オットカル1世の広大な領地を手にして、申請ローマ帝国皇帝の座を確実なものとしていくのであった!
650年も続いたハプスブルク王朝の始まりは
ただの棚ボタ皇帝だったという驚きの結果でした。
もちろん、ルドルフ皇帝のあとも、易々と皇帝の座が守られることはなく
あらゆる権謀術策によって血塗られた一族となっていきます。
続きはぜひ本書でお読みください!!
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となることを期待して・・・