この半年、僕の心をあらわす漢字。

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この半年、僕の心をあらわす漢字。
それは、「諦」という文字が一番ふさわしい。
諦念、諦め、etc…
後ろ向きな文字だと思う。
「諦」
この文字は、臣下が帝(みかど)に向けて言葉を発するも、聞き入れられない状況を漢字にしたのではないだろうか。
帝の行いを、口すっぱくして諌める臣下。
それに聴く耳持たない、帝。
かといって、命をかけてまで諫言しようとも思わない。
そんな状況を描写した文字であると思う。
「諦」
帝に言う、と書く。
それが「あきらめる」という意味であるなんて、すごい文字だ。
正しい語源は知らない。
でもそんなことは関係ない。
この世で誰か一人でも、「そうだ」と思う人がいれば、それはそれで正しいことなんだと思う!
話がそれた。
そのことについては、また今度考えてみようと思う。
気を取り直して、「諦め」を良い方向に捉え直してみよう。
何かを諦めるということは、何か新しいことを始めるということだ。
何も新しいことをやる気がないのなら、諦めなんかせずに、今を受け入れてしゃあしゃあと生きていくことを選ぶ。
それか、今を変えていくことに命をかけるかだろう。
そのどちらでもない、諦めという文字。
それは、ただの「逃避」ではないのか。
今が嫌で、今から逃げることによって新しくやり直す、ということじゃないか。
逃避であるならば、新しいことをやり直したとしても、また嫌になって逃げだしてしまう。
一度ついた逃げ癖は、なかなか治らないし。。
恐らくうまくいかないだろう。
「諦め」と「逃げ」は違うのだろうか。
ここが、ポイントである。
諦めは、どういう時に生まれてくる感情なのかを整理しよう。
「何かを一生懸命にやったが、思った結果が得れない。
この場所ではだめだ、ここで果てる価値もなさそうである。
自分なら、もっとできるはず。」
といったところか。
要するに、「違う」ということだろう。
じゃあ、逃げはどうか。
「今が嫌である。」
たぶん、ここからスタートしてるんじゃないだろうか。
その後は、諦めの時とほぼ同じ思考の道筋を歩んでいると思う。
最初の発起点が違う。
「違う」か「嫌」か。
だがしかし。
これは両方、良い感情ではない。
結局は、後ろ向きだし、基本的には負の感情だ。
対する正論としては
(「違う」ならば、もっと頑張ってみたら良いじゃないか。
やってもみないで、違うと決めつけるのは、はなはだおかしい。
要するに、頑張ることからの逃げじゃないのか。)
となるだろう。
まことにごもっとも。
だけど、そんなことはわかっている。
諦めとはどういうことか。
先ほどのカッコ内で説明した正論のところを、全部ひっくるめて、全部わかった上で次のところへ持っていく。
その負の感情をエネルギーに変えて、持っていくことだ。
逃避からは、嫌なことから離れたいというエネルギーしか生み出さない。それは、おそらくそれから離れるだけの力しか生み出さないだろう。
だから、次もまた逃げ出す。
だが、諦めから生み出されるエネルギーは、自分が過ちや失敗として引き受けるものを多くすればするほど、強大なパワーに変わる。
それらを全て吸い込んで行くことで、次なる新天地での源になる。
今までのことを全て総括して、不退転の決意を固め、全てをそのまま受け入れる。
今まで何かを頑張ったというプラスの熱意を、諦めというマイナスの感情でもってさらにグレードアップさせ、別の方向へそのまま持っていくことだ。
だから、僕は諦めを選択した。
それは、自分の内なる力を引き出すために必要な、心の動きであり、次の行動へのエネルギーになる感情だから。
負の感情の方が、自分一人を動かすには適している。
だから
「諦」である!
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