うめちゃん(梅棹忠夫)の本(文明の生態史観)を読んでる。
うめちゃん(梅棹忠夫)は、なかなかキッパリ言い切る人で
「そこはそんなことないやろ~」
って反射的に反論したくなることがちょくちょく出てくるけど、よくよく考えてみると「やっぱりそういうことかもしれない」って納得してしまうようなことを書く。
この、第一読後で首をかしげて、よく考えると納得できるような現象が起こる理由として考えられるのが
1 うめちゃんの説明不足(丁寧な説明に僕が慣れてしまっている)
と
2 うめちゃんの言い切る力(マルクス的な断言力か)
内田樹さんの本みたいに、ややこしい話を懇切丁寧に完全に噛み砕いてくれるような本ばかり読んでいると、急に断定的に話されてもわからない。
思考のプラットホームと呼ばれる「一回どっこいしょ」と著者と読者が考え方を共有して休めるところを、文中に持ってきていないと、現代の説明過剰な本に慣れた僕たちはとまどってしまうのだ。
しかし昔の本は、うめちゃん(梅棹忠夫)のような書き方が当たり前だったのではないか。
勝手なイメージとして、マルクスという土俵の上でマルクスの正否を問うていた頃、マルクスのように大きな物語を断定的に述べるのが一般的だったのではないか。
「俺はこう思う!
だからこうなる!
そしたらこれが見えてくる!
ほらすごいでしょう!」
ドン-バン-ダン!
と
石橋をぶっ壊しながら走るこの勢い。
まさしく最小限の説明で畳み掛けてしまう。
これが著者が送りたいそのままの速度で自分の中に入ってくると、ものすごい気持ち良いんだろうが、なかなかそれを体感するのは難しい。
だからこそ、だからこそ
違う時代に書かれて、その時代を体現している優れた本を読むことは、かなり刺激的な体験になる。
このような違和感をもたらすうめちゃん(梅棹忠夫)の本は、すごい本だなぁ、とやっぱり思った。