「縁」という言葉に縁があったのか、今まで2回にわたって「縁」について考えてきた。
しかし上記で得た結論にイマイチ納得できていないので、もう少し縁という言葉について深堀りしてみようと思う。
そもそもなぜ縁という言葉に疑問を持ったのか
「まあまあこれも何かの縁だし」
といった言い回しにより、二人の間で起きつつある問題を包み隠そうとする出来事がよくあるし、自分も使っていたからだ。
言うなれば、縁という顔をした小さなお地蔵さんが横から急に顔を出してきて「縁に逆らうやつには仏罰が下るぞよ!」とでも言いたげな目で優しく睨まれたような状態である。要するに縁という言葉は、ロジックと感情で考えるべき問題のところに、仏教という訳の分からない物が入り込んできて「ま、いっか」という気分にさせてしまう、とても便利で不思議な言葉のことである。
というように、こんな便利でしかし何の解決にもなっていない言葉に対して疑問を持ったから、上のように二つもブログを書いて考えているのだ。
自由意志は存在する
さて、自由意志に根拠がないから縁は大切にしようで、自由意志に根拠がないから縁という科学の裏付けの無い概念を大切にして世界を生きて行こう!といった強引な結論にしたブログを書いていたが、そもそも自由意志が無いという結論に至るのはまだはやかったようなので、この点について再考する。
いま、自由意志があるのかないのかという議論が今どこをさまよっているのかは知らないが、量子論によると「神はサイコロを振る」(確立が介在する)ということになっている。これによって「今現時点にこの世にあるすべての物質の数値情報を得られたらその後の全ての行動は予測できる」ということは間違いだということになる。よって、スーパーウルトラコンピューターが出来て全ての情報をそこにインプットすることができたとしても、その後の行動を予測することは、確立が介在する以上不可能ということになる。量子論はまだ完成していないらしいのでまだわからないけど、とりあえず自由意志はあるということにして先に進もうと思う。
根拠もへったくれも無い縁という概念が親しまれている理由
仏教用語、としか根拠のない縁という言葉が、現在に至まで親しまれてきた理由は何なのか。まさか宗教国家ではないこの日本で「偉いお坊さんが昔にそういったから」というだけの理由で縁という言葉と意味が我々日本人の血肉になっているはずがない。日本辺境論にも下記のようにある。
「おらくこれは、はじめから自分自身を中心としてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境民族としてスタートした民族とのちがいであろう」
「(そして辺境であるが故に)中華秩序における辺境のそのまた辺境というポジションを受け入れることで、政治的文化的フリーハンドを獲得した」日本辺境論
日本は中華圏の中の辺境だからこそ、中華の良いところは受け入れてよくないところは無視することができたということである。
要は使えるかどうか
じゃあ何で縁という言葉が浸透しているのかというと「昔の偉いお坊さんが考えだした縁という概念を使う方が、実生活でメリットが多かったから」ということでしかない。
仏教特有の概念に縁以外の言葉はたくさんあるはずだが、これらの言葉のメジャー度合いに差があるのは、要はそれを行うことによるメリットの量に比例しているだけだろう。
だから根拠のない縁という概念は、長い日本人の経験知から「これは使ったほうが良い」という結果として今現在もよく使われている概念であるので、「縁という言葉は信じて使うに足りる言葉だ」と結論つけて良いと思う。
日本には厳格な宗教というものが無かった分、今日本人が思っている良い事のほとんどは「そう考えた方が良い事が多かったという経験知の集合体が日本になった」ということである。
これは良い事ばかりでもないのだけれど、そのあたりはまた日本辺境論から引用するだけになってしまうので割愛して、この項をおわりにしたいと思う。