湾岸戦争 孫子の兵法で戦った、砂漠の嵐作戦

湾岸戦争までの経緯
① イラン・イラク戦争後の戦争負債がイラクの経済に重くのしかかる。
② イラク唯一の収入源の石油を、クエート・サウジアラビアが増産し始めて、石油価格が下落イラク経済の破綻が近づく。
③ クエートに損害賠償を請求(石油を増産したことでイラクの収入が減ったため)
④ クエートは拒否。軍を動員(その後動員は解除)
⑤ イラクはクエート国境に軍を集結
⑥ アメリカが声明で「クエートを防衛する義務はない」と発言
⑦ 8月1日、両者を仲介していたエジプトのムバラクとアラファトが、イラクの侵攻はないとクエートに伝える。
⑧ 8月2日午前2時、戦車350両を中心とする共和国防衛隊の機甲師団10万人はクウェートに侵攻を開始。午前8時までには、クエート全土を占領。
⑨ アメリカが多国籍軍の編成を呼びかけ、アラブ諸国他多数が賛同。サウジアラビアを守る、「砂漠の盾作戦」発動
⑩ しかしその後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(いわゆる「対イラク武力行使容認決議」)を採択した。
砂漠の嵐作戦開始。
さて、今回はいつもと趣向を変えて湾岸戦争勝利の要因について分析してみたいと思う。
湾岸戦争は終わってみると、圧倒的に多国籍軍が勝ったが(損害 イラク軍 3万人 多国籍軍 300人)戦う前までは世界第4位の陸軍力を誇り、8年続いたイラン・イラク戦争で実戦を重ねた部隊と戦うわけなので、戦々恐々としていた。
・アラブ・ヨーロッパなど広範囲の多国籍軍の編成
そのため、アメリカは多数の多国籍軍を募り、最終的に33カ国が参加。
その中には、反米意識がつよいアラブ諸国も含まれており、実戦指揮官のシュワルツコフは対応に苦慮した。
しかし、各国軍のバラバラな利害関係をシュワルツコフ$みんどく@関西読書会&日々の学び
はうまく落としどころを見つけていく。
戦う前からバラバラになりかねない国々をうまく結びつけて(上下欲を同じとするものは勝つ)、一つの軍隊として構築、各国軍の指揮官一人ひとりと信頼関係を作ったシュワルツコフは、複雑な作戦を遂行できるだけの統一した組織作りに成功した。
・大胆な作戦
クエートを併合したイラクは、多国籍軍の侵攻に備えて厳重な守りを敷いていた。
真正面からクエートへ進んだのでは、大きな犠牲は避けられない。
$みんどく@関西読書会&日々の学び
そこでとった作戦が、イラクを直接攻撃し、クエートに背後から迫り包囲することを目指した。
兵は詭道なり。その備なきを攻め、その不意に出づ
イラク本土を経由してクエートにイラク軍の背後から迫り、クエートイラク国境に布陣してる敵の主力部隊の大統領警護部隊を撃破することを主目標とした。
$みんどく@関西読書会&日々の学び
・ぎへん
ギリギリまでフセインには、クエートに直接攻め込むと思い込ませておきたいので、シュワルツコフは数々の偽変を実行。
1 偽の基地を作り、プラスチックなビニールなどで偽の飛行機や戦車を配備、うまく傍受させるように電波を飛ばし、クエートへ直接侵攻すると思わせた。
2 海兵隊をペルシャ湾に展開させ、クエート上陸作戦を行うことをマスコミを使い、しきりに喧伝させた。
クエートの南に展開した多国籍軍、基地からはしきりに電波を傍受、海兵隊は上陸のためにペルシャ湾に展開している・・・・
メディアへの対応も硬軟使い分けて、サダム$みんどく@関西読書会&日々の学び
の頭の中をこちらが出した情報で満たしていくようにしむけることに成功した。
・空前の部隊移動
奇襲を成功させるためには、サウジ・クエート国境に展開してる部隊を迅速に移動させなければならない。空襲が開始してから21日間に東京広島間に相当する830kmを、装備や物資までも含めて移動させることに成功した。
軍隊がこれほどの距離をこれほどの速度で移動した例はない。すべての作戦行動は完全に秘匿された。
$みんどく@関西読書会&日々の学び
・徹底した空爆
世界第4位の陸軍を誇るイラク軍を撃破するために、指揮系統・通信・補給路・ミサイル基地・軍事施設を徹底的に破壊。数万回に及ぶ出撃により、イラク軍の指揮系統は消滅した。
多国籍軍の移動が完了し、地上戦が開始された。地雷原を戦車が通れるだけの道を爆弾で切り開きながら進撃。一部、大統領警護の重装備部隊との交戦は激しかったが、他には大きな抵抗もなく、あらぬ方向から攻めていった多国籍軍に対して、イラク軍は背を向けて守っていたりする状態だった。
大統領親衛隊や共和国防衛隊を除く主要のイラク軍は度重なる空爆によって消耗、装備も貧弱でまるで士気が無く、また一部では油田に火を放って視界を妨害しようとしたが、多国籍軍は熱線映像式暗視装置を持っていたため、煙の向こうのイラク軍部隊は攻撃もできずに一方的に撃破され、また食料も尽きたためか続々と投降した。
ゲリラ的な移動式のスカッドミサイルによって、死傷者も発生するが、抵抗もここまで。
多数の捕虜を出しながら、イラク軍は撤退していった。
多国籍軍は追撃を試みるも、ブッシュが停戦を発表。
イラク軍を殲滅する時間は与えられず、かなりのイラク軍が逃亡に成功していた。
(サダム政権を倒したくなかったため)
イラクの都市に攻め込まないことで、地上戦が泥沼になるのを回避し、短期決戦を成功させた。
純粋な戦術としては、ベトナム戦争で失墜したアメリカ軍の尊厳を回復できたお手本のような戦いであったが、油田の破壊による環境汚染や、人体にとてつもない悪影響を与える兵器の使用によって戦争後遺症が多数発生した。

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