ある程度、本筋に関係ないところは思いっきり省いています。
主題である「ユダヤ人迫害には理由がある、と思っている人がいることには何かの理由がある」
について関係ありそうなことだけを選定して書き出しました。
選定してみると、二章と三章は肉付け的なことだけで、核心に迫り続けているのは、一章と終章のみでした(笑)
一章
1ユダヤ人を結びつけるもの
ユダヤ人としては、今住んでる自国も大事だが、イスラエル存亡の危機を通じてユダヤ民族滅亡の危機になれば、今住んでいる自国の敵にもなりうる。
2ユダヤ人は誰ではないのか
国民名ではない
世界中に散らばって生活している。
その血のうち八分の一をユダヤ教徒が占める人をユダヤ人とするニュルンベルク法で人種として区別しようとしたが、敬虔なキリスト教徒がユダヤ人と認定されてしまうようなことがあり、人種としての区別は不完全に終わった。
キリスト教徒は、キリスト教に教化されないユダヤ教徒を、普遍的なものに抵抗するローカルな蒙昧の体現者として憐れんでいた。
そしてキリスト教徒は、その特異な考え方そのものを恐れたため、宗教的違いに留まらずユダヤ人という悪夢からの解放を欲求している。よって宗教だけというくくりは出来ない。
ユダヤ人は「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けてきた。
たまたま嫌な仕事(金融や商人等)をさせるに都合の良い、言うことを聞かない集団がいたから、それをユダヤ人とした。
ユダヤ人と非ユダヤ人という区別をすることで、それまで言えなかった何かの新しい概念を、ヨーロッパは得たのではないか。
ユダヤ人問題には終わりがなく、我々の社会に構造的にビルトインされている。
悪とされている集団が根絶されれば、社会の問題は解決するというロジックは、社会の構造的矛盾を隠している場合には、永遠に続けられる。
しかし、ユダヤ人にはそういったつじつま合わせのような憎しみではなく、ユダヤ人にしか負えない特別の憎しみを受けている。
その存在しないものと、ユダヤ人は民族的な仕方で触れてくる。
映画はニッチだったから。
ユダヤ人は多くの領域でイノベーションを担ってきた。
その民族的に培ってきた考え方として、自分が現在持ちいている判断枠組みを疑う力と、私は私でしかないという自己縛りを不快に思う感受性。
イノベーションが民族規模であるということは、ユダヤ人の普通が、それ以外にとって普通ではないということ。
民族固有の聖史的宿命ゆえに他民族以上に受難しなければならず、それはユダヤ人のふつうでなさを標的とされた。
改宗等で逃れる可能性のないホロコーストによって、おのれの究極的な自己同一性に召喚された存在者の無垢性そのものを痛撃した。それによって、ふただび聖書に記されている通り、万人の証人となり、その受難によって、万人の死を資に、死の果てまで進むべくイスラエルが呼び寄せられたのである。
聖なるものであるからゆえに、他者のためにその身代わりとなって死ぬことを求められている。
レヴィナスは、神が私の民だと思っている人間である。
二つに共通することは、ユダヤ人とはある種の遅れの効果、起源の遅れがあるということ。
2に続く・・・・