「寝ながら学べる構造主義」 4章~6章 読んだ人だけがわかるまとめ

「寝ながら学べる構造主義」1章~3章 読んだ人だけがわかるまとめ の続き

4章

バルト
価値中立的な語法のうちにこそ、その社会集団の全員が無意識のうちに共有しているイデオロギーがひそんでいる。

全く無からの作品というのは存在せず、全てはテクストである。

何も主張せず、何も否定しない、ただそこに屹立する純粋なことばという不可能な夢。

俳句を読むという営みは、言語を欲情させることではなく、言語を中断することだ。
俳句においては、ことばを惜しむということが優先的に配慮される。
おのれにふさわしい形式を一気に見出した短い出来事なのである。

日本の文化が、無根拠に耐えうることやどこにも着地できないで宙づりになったままでいられることを人間の成熟の指標とみなしている。

5章

サルトル
実存は本質に先行する

実存主義
自己の存立根拠の足場を自己の内部ではなく、自己の外部に立つものにおくこと。
状況へ主体的に決断していくことで、自己形成を果たす。

レヴィストロース
用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく、個々の社会が世界に対して抱く関心の深さや細かさはそれぞれ違うということによる。

二項対立の組み合わせを重ねてゆくことによって無数の異った状態を表現することができるというこの音韻論発想法を、人間社会のすべての制度に当てはめてみた。

人間が社会構造を作り出すのではなく、社会構造が人間を作り出す。

親族構造は端的に近親相姦を禁止するために存在する。
その理由は、女のコミュニケーションを推進するためである。

人間社会において男は、別の男からその娘または姉妹を譲り受けるという形式でしか、女を手に入れることができない。
それにより、贈与の応酬となる反対給付の義務感が生まれる。
それは、社会を同一状態にとどまらないようにするため。

私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない。

6章

ラカン
幼児期に鏡像段階を通して自己を把持する。
しかし鏡に映る自分は厳密な自分ではない。

私という主体の外部にあるものを主体そのものと構造的に錯認して生き思考してきる以上、人間は、みな程度の差はあれ狂ってることになる。

フロイト
私たちが忘れていた過去を思い出すのは、聞き手に自分が何ものであるかを知ってもらい、理解してもらい、承認してもらうことができそうだ、という希望が点火したから。
自分が何者であるかの告白には、自分が何者であると思って欲しいかのバイアスが強くかかっているはずだ。
被分析者は自分について語っているつもりで、むなしく誰かについて語っている。
その語られているのが自分でなくても、語り続けることで限りなく自分に近づいていく。そしてその生み出された自分へと戸籍を移転することで、病的症状が緩和されたら、それは治療の成功なのだ。

あとがき

「レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っておりフーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。」

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