続き・・・
ユダヤ人は自分がユダヤ人ということを否認するために、永遠の努力を続けなければならないように宿命づけられている。
今の自分に安住することができない。
ユダヤ人はこの世界や歴史で構成されたのではない。むしろ、世界や歴史がユダヤ人とのかかわりを通して構築されたものではないか。
対立や葛藤は両者を強化する。
愛する人間に対してさらなる愛を感じたいと望むときに無意識の殺意との葛藤を要請する。その葛藤によってさらに欲望は亢進する。
自分は愛情が深い人間だと思っており、かつその愛情の深さを絶えず確認したいと望む人間ほど危険な存在はない。彼らはいずれ「愛する人の死を願う」ことで葛藤の力を利用し、自分の中の愛情を暴走的に亢進させることができるという「殺意ドーピング」の虜囚になるからである。
原初の父を殺した有責から生まれた宗教と、その考え方に抵抗した人々がいた。それがユダヤ人。
善行を積めば神の恩恵を得、悪行を行えば神の罰を受けるというのが本当なら、神を操縦できるということになる。
その罰への恐怖のために善行をなすならば、その動機は恐怖でしかない。
神が顕在しないという事実そのものが、独力で善を行い、神の支援抜きで世界に正義をもたらしうるような人間を神が創造したことを証明している。
反ユダヤ主義者がユダヤ人を欲望するのは、ユダヤ人が人間になしうる限りもっとも効率的な知性の使い方を知っていると信じているからであり、
ユダヤ人が人間にとってももっとも効率的な知性の使い方を知っているのは、時間のとらえ方が非ユダヤ人とは逆になっているからであり、
そして、そのユダヤ人による時間のとらえ方は、反ユダヤ主義者にとっては、彼らの思考原理そのものを否定することなしには理解することのできないものである。
その時間の捉え方の違いとは、非ユダヤ人(普通の人々)の「私はこれまでずっとここにいたし、これからもここにいる生得的な権利を有している」という考え方と、
ユダヤ人である、「私は遅れてここにやってきたので、この場所に受けいられるものであることをその行動を通じて証明して見せなければならない」と考えるユダヤ人の、アイデンティティの成り立たせ方の違いが、ユダヤ人を形作っている。
ブランショは、ユダヤ教が一宗教である以上に、私たちの他者との関係の根拠であると感じるようになった。