司馬遼太郎著、世に棲む日々の中で吉田松蔭が「○○こそが神髄である」といったことを述べていた時、「神髄」ってよく考えたらすごい言葉だなあと感じた。
「神髄」という言葉の意味は、「そのものの本質。その道の奥義。」という意味。
たぶんこの言葉を作った人は、絶対的に間違わない無二なものをあらわすために「神様の脊髄」を選んだんだとおもうけど、そのセンスはどういう思考からうまれたんだろう。
西洋的な神様といえば、絶対的で神聖なものとして存在し、例え神様と遭遇したとしてもその姿は大きな光につつまれた光の中に存在している、といったような感じだとおもう。そんな神聖で侵すべからざる神様を、西洋の人が「神様の脊髄は絶対的で間違わないものだ!」という風に捉えて「神髄」という言葉を作るようなことはありえないだろう。
でも神髄という言葉を作った東洋の人は、言葉の意味を説明するための役割として神様に登場してもらった。この差はどこからきたのか。
神様を、本当にもうすごいものとして捉える西洋と、もしかしたら人間のような姿格好をして、その辺の山にいて、山へ山菜でも採りに行けば親しげに「やあ」とでも言いながら薬草の一つもくれるようなおじさんを神様として捉えた(僕だけかもしれない)東洋の間にある、親近感の差はどこから生まれているのだろうか。
僕は東洋的な雰囲気が好きだなあ。
終わり。