坂口恭平と織田信長の共通点
織田信長と坂口恭平
共通点とは、ずばり
常識を疑うことだろう。
世間の常識に疑問を持ち、その違和感に向かってまっすぐ行動を起こしていく。
その疑問を行動に移していくことが、両者の共通点だ。
坂口恭平は、家というものに疑問を持った。
なぜ家を作るのにコンクリートを大量に流し込まなければならないのか、なぜこんなに高価なのか。
それで、モバイルハウスというものを作った。
それから土地というものにも疑問を持った。
毎月の家賃は、なぜ大地ではなく、大家さんに払うのか。
そしてその疑問が、新政府を作る行動へと変わっていく。
そして、独立国家を作った。
独立国家は正式には「芸術作品」ということなので、問題はない?らしい。
彼にとって常識などは、思考停止
させるためのものでしかないのだろう。
子供の頃からの純粋な疑問を行動にうつして、周囲を変えていっている。
まさしく、信長そっくりじゃないか!
織田信長は、比叡山延暦寺の焼き討ちや、鉄砲の集中運用、楽市楽座等の経済政策、職業軍人の開発、恩賞の代わりとなる茶器等々。
当時の常識というものを、ことごとく打ち破り、天下統一へ向けて歩んでいた。
常識とは何だろうか。
基本的には、社会で生きていく上で「こうした方が良い」という先人の知恵だと思う。
こうした方が良いという法則のようなものが常識になっている。
だから、普通に生きていく上でわざわざ常識を疑うなんて事は必要ないだろう。
じゃあ常識を疑うっていうのは、どうゆう時なのか。
それは、常識によって不合理が生み出されている時だ。
常識が合理的でない時、それは誰かに利害関係を生み出している。
そこから利益を得るために、括りを作って周囲に認めさせ、それが常識になる。
織田信長が打ち破った、比叡山や寺社勢力や座たち。
自らにメリットのある決まりを力で作り上げ、それを常識として周囲に認めさせた。
長年続いていたその仕組みに対して、織田信長は真正面から戦いを挑んでいった。
だから、常識を疑う時っていうのは、社会そのものを疑う時だ。
社会を疑う。
自分の気持ちの素直な声に耳を傾ける。
それが、社会の常識とは違うくても気にしない。
いや、気にしないのではない。
自分の感覚を信じ、自分の心を信じれる。
自分を信じれる力だ。
そんな力はどこから生まれてくるのか?
さっぱりわからない。
坂口恭平と織田信長に聞いてみたい。
「その根拠のない自信はどこから出てくるのですか?」
と。
あ、このフレーズはどこかで聞いたことがある。
内田樹が聴講者からの質問であった言葉ぢゃないか。
ここをヒントに、その自信がどこからでてくるか考えてみた。
それはたぶん、
「社会と人生を大きな括りで捉えている」
からぢゃないか。
「目の前の事にいくつか失敗したところで、人生に大きな影響はない」
的な。
この先の人生を長い長方形の立体とイメージして、それが少しずつ欠けてもたいしたことはない。
別のところでカバーできるし、減ってもいいやっていう感じだろう。
僕も根拠のない自信はある方なので(たぶん)なんとなくわかる。
いやー、でもたぶん違うな笑
欠けてもいいやっていうのは、建設的な思考ではない。
そこからは、何かを作り上げる大きなエネルギーも生まれてこない。
失敗を怖がらない程度のことにしかなり得ないかもしれない。。
そうだ。
そういうマイナス思考的な考え方から、そんなエネルギーは出てこないだろう。
たぶん二人は
「社会はこんなものではない、もっと良い社会というものがあるはずだ」
という「信念」を糧としている。
その自分の想い描く「信念」こそが、常識という大きな現状維持力に対抗していけるパワーなんだろう。
というわけで、社会を変えていくためには、自分の信念が拠り所に違いないという結論。