リアルファーをやめよう
というデモの存在を知る。
モデルが着用するリアルファーのために、たくさんの動物が殺されていることへのデモだ。
確かに毛皮を着用するモデルや消費者は、その自分が着用する毛皮のために、どれだけの動物が犠牲になっているかはあまり意識していないだろう。
「NO FUR」を謳うNPOのHPを見ると、毛皮を作るため無垢な動物たちにかなり酷いことをしているらしい。
しかしここで、疑問にぶち当たる。
毛皮と焼肉は何が違うのか?
毛皮と焼肉は、最終的に屠殺するという点においてはまったく同じだろう。
なるのはその動物から収穫したものの「使い方」だろう。
焼肉は食べること。
毛皮はファッション。
ここに、リアルファー問題の本質があると、僕は思う。
人類は生きるために動物を食べてきた
猿から進化した人類は、生きるために動物を狩ることによって、生き残ってきた。
だから、食べるために動物を殺傷することは、何ら問題がないと思う。
そこに問題があるのなら、今までの人類の歩みを否定することになり、それは自分自身の存在自体を許す事ができなくなってしまう。
(そもそも、動物を食べることがダメなのに、なぜ植物は良いのか?ということも気になる。
動かないから?
痛がらないから?
まあ、動物と植物の違いについては、また今度考えてみよう。)
食べるということの本質は、食べなければ人は死ぬということだ。
生きるために動物を食べる。
しかし毛皮はどうか。
(先進国において)毛皮を着る主な理由はファッションだ。
自分を美しく魅せるために、自分の個性を出したいために毛皮を着る。
しかも、毛皮の高級ブランド品は、動物の皮を剥いで作っているという生々しさを感じないよう、綺麗に加工されている。
毛皮の服は焼肉に比べて、屠殺の生々しさを感じないのだ。
焼肉を食べる人はわずかにでも「生き物の命をいただいている」という実感はあるだろう。
でもファッションとして毛皮を着る人たちは、そんなことを感じていない。
ここに、リアルファーを止めようという運動の正当性がある。
命をもらって生きているという実感無しに生き物を殺してはいけない。
だから僕は生きていく上で、たくさんの命の上に自分はなりたっているということを実感していれば、焼肉を食べることに何の抵抗を感じる事もないと思っている。
だから、毛皮も寒さから身を守るために・・・
動物を待ち伏せして狩るために人間のにおいを消す必要から・・・
等々の時は、毛皮を着ることに頓着する必要はない。
誤解を恐れずに言えば、たとえファッションのためであっても
「私は動物の皮を着ていることを理解しているし、何の恥ずかしさもない」
と堂々としていれば、問題はないと思う。
要するに、その生産物を作るために失われた命に対し、真正面から向き合っているか
ということが問われているのだ。