岡山2区も衆院選無効 広島高裁に続き2件目
「最高裁が違憲状態とした「1票の格差」がさらに拡大した昨年12月の衆院選は違憲だとして、弁護士らのグループが選挙無効を求めた全国訴訟で26日午前、広島高裁岡山支部は「違憲」と判断し、岡山2区の選挙無効判決を言い渡した。」
広島1、2区では去年の選挙で、最大2・43倍の「1票の格差」という状態だったため、この選挙結果が無効になるということらしい。
この一票の格差が問題にされている根拠として、憲法14条があげられている。
1、すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
この条文に違反しているということが根拠になっている。
ただ僕には純粋な疑問がある。
「政治家は地域の代表を選ぶわけだから、その地域の人口差によって一票の格差が出るのは当たり前じゃないの?」
と思う。
選挙区の区分けの仕方を知らないから、こんなあほなことを考えているんだろうと想い、調べてみた。
wikiにはこうある。
衆議院小選挙区制選挙区一覧
「現在の小選挙区の区割りについては、まず、各都道府県に1ずつ配分した上で、残りの253を直近の大規模国勢調査の人口に応じて比例配分する。
そして、各都道府県に割り当てられて議員定数と同じ数の小選挙区を設けるべく、なるべく人口が均等になるように、都道府県ごとに小選挙区の区割りを行なう。このようにして47都道府県の全域が、300の小選挙区に区割りされる。
この際、全国平均(全国の人口÷300)の3分の4の人口(約56万人)を上回る小選挙区は設けられず、全国平均の3分の2の人口(約28万人)を下回る小選挙区は極力設けられない。
このため、全国平均の3分の4の人口を上回る市区町村は、当然分割されることになる。一方、人口80万人前後の県に3人の定数が割り振られている関係上、その県には全国平均の3分の2の人口を下回る小選挙区ができ、一票の格差が2倍以内に収まらないことになる。」
なんかわかりにくい文章だけど、要するに
「選挙区は人口の増減によってその都度変えられていくもの」
ということなんだろう。
だから、人口による格差を是正する仕組みがあるにも関わらず、格差が大きい状態で放っておくのは良くないこととして、裁判所が違憲とか言うのだ。
ふむふむ、これならば確かに、「違憲」で「無効」になるのもわかる気がする。
しかし、僕はこれでもなぜかしっくりこない。
そもそも一人一人の人間に格差が無いっていうのはなんだ?
平等っていうのはどういう状態のことだ?
誰でも同じだけのチャンスが与えられるのが平等?
同じチャンス?
同じって何?
???
平等な社会というのは、この世に存在するのだろうか。
スターリンのソ連でもこうはいかないだろう。
しかし憲法にはこう書いてある。
1、すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
あ、”法の下に”って書いてあるじゃないか。
これは要するに
「人間は全く平等でもなんでもないけど日本国が作った法の下にぐらいは平等という状態を維持するよ!」
ということであり
「法の下に一人一票が定められているのだから、その一票が持つ力の差は低くあるべきだ」
ということなんだろう。
そしてこれはとどのつまり
「現実世界では不平等なことばかりなんだから、法律が及ぶ範囲ぐらいは平等にしてくれないと私泣いちゃう」
だから法の下でも平等が実現できていない一票の格差というのが大きな問題になっているのだろう。
あ!
でも法の下での平等っていうのもあり得ないじゃないか!?
裁判では、その事件をとりまくあらゆる要素をこんぴゅーたに入れて完全に公平な形で判決がくだされるわけではないし、もちろん全て人間がやっている。
だから未来永劫「完全に精確な分析による判決」というものが起こるうるはずもない。
必ずなにがしかのバイアスがかかった状態で判断はくだされている。
もしかしたら被告人は何かをしゃべり損ねたかもしれない。
もしかしたら見つかるべき証拠が偶然見つからなかったかもしれない。
裁判長が被告人の顔のことが生理的に無理だったのかもしれない。
口下手だったり、運が悪かったり、顔が悪かったりすることも、
その平等とやらの内に入ってくるというのだろうか。
純粋な事象だけで判断されないということが、法の下の平等といえるのだろうか。
これはつまり、「平等の定義がもっと広い」ということにもなる。
平等というのは、完全なる点の状態というあり得ない幻想ではなく、ある程度バッファを持った面であるということになる。
裁判官達は、その面の範囲を決めてそこから逸脱しないように、日夜判決を下しているというわけになる。
そしてこの面が「一票の格差を2倍以内」ということになる。
じゃあこの面は誰が何を根拠に決めているんだ?
「2倍以内なら問題ない」というのは何を根拠にしているのだろう?
「まあそれぐらいならいいんだっぺか」という人の感情を根拠にしている以外に思いつかない。
要は、国民が怒りださない程度という曖昧な「程度」によって決められている。
気持ちの問題という曖昧なものを根拠にしている以上、何かのタイミングで
「1.5倍でも嫌だべ!」
という人があらわれてくるはずだ。
そういうときはどうするのだろう。
面の広さを変えるのか。
たぶん、そうだろう。
平等という言葉の広さの定義を、裁判官が時代を肌で感じながらそこに合わせて再定義していく。
これが裁判官に求められる真の力なのかもしれない。
平等という、誰も言葉にできない曖昧な最後の聖域を守ることで、その法の力そのものへの疑いを抱かせることなく、国民を従わせる力・・・
ということで、このブログの結論は
「裁判官はすごい」
という結論に終わりました。
ほんとは、平等という言葉に皆が抱く幻想と、人間が平等という幻想をつきあわせて一票の格差問題をぶっ飛ばしたかったけど、うまく話が進まなかった。
僕はどこかで敗北したのだ!
不本意!