人が生きる大地モンゴル

この前、Facebookでモンゴル在住の日本人とメッセージをしていたら、無性にモンゴルへ行きたくなった。

その方は僕のブログを見て僕にメッセージをくれた方で、会ったことも見たこともない人だけど、なぜか無性に会いたくなった。

今までは、同じようにモンゴル人の友達とメッセージのやりとりをしていて会いたくなることはよくあったけど、日本人に対しては初めてだ。

僕は今まで、この無性にモンゴル人に会いたくなる症候群の理由は、大きな優しさを体中からほとばしらすように接してくるモンゴル人だからだと思っていたが、日本人に対しても同じように会いたくなることがあるということは、それとは関係のないところに会いたくなる症候群があるということになる。

この、無性にモンゴル人に会いたくなる症候群の正体は何であるのか。

これは人に由来するものではなく、モンゴルという大地に由来するものだからではないだろうか。

モンゴルと聞いて皆が一番に思い浮かべるのは「大草原」というのが一般的だ。
この大草原が有名ということを裏返すと、モンゴルには何もないと言っているのと同じことだ。
モンゴルの大地には何もないのである。

でも何もないからこそ、人という個が引き立つのだ。

冬には冷たい空気に包まれて人と会い、夏には爽やかな風に包まれて人と会う。

余計なもののないシンプルな大地の上だからこそ、その人の個がひき立ってその人自身を強烈に感じることができるのだ。

ひるがえって我が国を考えてみると、日本は個の周囲にあるあらゆるものを茶道や柔道のように「道」としてふくらませていったり、たくさんの建造物や知識とともに人を捉えることを文化としてきた。

だがモンゴルは、「何もない何も残さない」という考え方が強くあり、「今、私の隣に存在する個」を大きな大地の上でシンプルにあるがままに捉えようとしているように思う。

日本の集合的な個のカタチは素晴らしいものだと思うが、モンゴルの漠とした大地の上にそのまま存在する個というのも、限りなく魅力的である。

モンゴルというところは、やはり僕にとって欠かすことの出来ない心の故郷であるし、広い世界にあって日本人とモンゴル人は蒙古斑に代表されるように共通の先祖を持ちながらも、物事の捉え方諸々は対極にある種族だ。

この日本とモンゴルの間にある「穏やかな対極性」というものが面白いものだと思う。

話がよくわからない方向へそれてしまった。

要するにモンゴルの大地には「人を引き立たせる力」があるということであり、この大地のパワーこそが無性にモンゴル人に会いたくなる症候群の原因であるのだ。

おわり。

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