チンギスハン映画祭で感じた2つのモンゴル

内モンゴル人のセルグレンさんがはじめたチンギスハン映画祭。
第一回目が12月15日、16日に東京の文京区で開催されました。
映画祭で感じた二つのモンゴルらしさについて書きます。

セルグレン監督オボー

モンゴルについてわからないならそれでいい

チンギスハン映画祭の記念すべき上映1作品目は「いのちの足跡」


 ゴビに住む女性が乱暴されて妊娠、そして生まれた男の子の物語。
男の子がかわいくも可哀想で、最後もハッピーエンドではない。
この作品にはあまり会話が出てこなく、ほぼ人物の感情表現だけで物語が進む。


上映後の質疑応答の際、観客の1人が「この映画はセリフも少なく抽象的な表現ばかりで意味がよくわかりませんでした。これはどういった意味の映画なのでしょうか?」と質問が出た。
これに日本映画大学学長は「好きなようにご覧になったらいいんじゃないですか」とばっさり。


映画について説明する事ほどつまらないことはない。わからんやつはわからんでいい。とでも言いたげな表情が良かった。


「わからんやつにわかってもらおうとは思わない」という気持ちにモンゴルらしさがあると思う。モンゴル文化というのは、辞を低くして「ぜひモンゴルをわかってもらいたい」などという風に伝えるものではない。草原に生きる民のプライドがそんなことは求めないだろう。


「モンゴルに来たけりゃこればいい。知りたければ知ればいい。お前たちがどうしようと俺たちは変わらずここにいる。いつでも家の扉は開いている。」という想いをモンゴルの遊牧民は持っているのだ。

「モンゴルにこだわらない

モンゴルの映画祭だから、音楽パフォーマンスは馬頭琴やホーミーばかりだと思っていた。
だが一発目の音楽パフォーマンスが、「マタリキ埼玉アイタ ペアペア」


フラダンスにアフリカっぽい音楽にライオンキングみたいな人まで出てくる賑やかさ。めちゃ腰ふりまくってるやん。荘厳で心に響くメロディの多いモンゴル音楽からすればまさに真逆のジャンル。一瞬、「俺は一体何の音楽祭に来ているのか」とわからなくなるぐらいのドッキリだった。

そしてさらに1本目の映画が終わった後の音楽パフォーマンスは「プレゼントプレイズ•ヘリテージ•ゴスペルククワイヤー」アフリカ人達のゴスペル。めちゃくちゃやかましくて鼓膜が破れそうだった。恐ろしいばかりの異次元っぷり。会場のみんなはさぞかしドン引きだろうと思いきや、案外ノリノリに手拍子してる。ステージに上がって踊りに加わる人も。

そうか。

ここにモンゴル帝国を作った人々の片鱗を見た。

「モンゴルだけに拘らず、楽しいことはみんなやればいいじゃん。宗教とか文化の違いとかそんなものは置いといて、みんなで楽しもう!」

ということなのかだろう。
モンゴル帝国万歳。

PS

ハランガの演奏もあったよ!

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