蒙古とモンゴル

蒙古とは昔のモンゴルを表す名称だ。中華民族が今のモンゴル高原で生活する人々に対して、蒙古という蔑称を付けたことが名称の始まりとされる。蒙にして古というのは最大限の侮辱的な蔑称であるが、中華民族は、中華の皇帝がおわす玉座から離れるほどに文明度は低くなっていくという考え方を採用していたために、中華の周辺地域に住む人々は皆似たような蔑称をつけられている。姜・突厥・契丹・柔然・東夷・倭、そして蒙古といいたように。

なかでもとりわけ厳しい名称なのが、凶と蒙古だろう。両者に共通するのは、中華民族に対して精強を誇った点だろう。凶は漢民族を苦しめ、漢民族側から毎年貢物を送られていた歴史もある。また、蒙古は中華を席巻するどころか、そこをも飛び出してヨーロッパへまで版図を広げていった。

これによって考えられるのは、中華民族にとって脅威であればあるほど、ひどい名前をつけていったということだ。中華民族にとって理解の超えた何かを持っていたからこそ、凶や蒙古といったようなとてつもない蔑称を付けられたのだろう。

だから僕は第三者の日本人だから言えることではあるが、中華民族にひどい名前をつけられるほど恐れられた民族だとして、逆に誇りに思っても良いのではないか。

また、蒙古と違ってカタカナで「モンゴル」という表記から読み取れるモンゴルからは厚みを感じれない。
やはり昔から使われてきた蒙古という言葉にはそれなりの重みがあるし(蒙古ラマ廟記という書物のタイトルがモンゴルラマ廟記だったら・・・笑)ほとんどの人は蒙という言葉が持つ悪い意味を持って蒙古とよんでいるわけではないだろう。


逆に蒙古という言葉に含まれる神秘的な雰囲気や、中華文明に迎合しないという自分たちの生き方へのプライドのようなものを、僕は蒙古という言葉から感じることができる。

蒙古という言葉を使った昔の人々もきっと同じような感慨であったはずだと僕は夢想する。

しかしこの蒙古かモンゴルかという問題には大きな問題がある。

日本人とモンゴル人との力関係がはっきり異なるということだ。

日本人としては、モンゴルや蒙古と呼び方を使い分けることができる。だが、モンゴル人としては、呼ばれた名称を受け取ることしかできない。この不平等さが蒙古という言葉を使わないという選択がなされてきた結果であろう。僕はこれを非としたいわけではない。蒙古という言葉を安易に刈り取って捨て去ろうということが勿体無いとおもっているだけだ。

蒙古という言葉に内蔵されたあらゆる風味を大事にしていくほうが、当のモンゴル人にとっても良いことだと思う。

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